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首里城で生まれた琉球古典音楽 伝統を継承し若者に広めたいと挑戦する女子学生の思い 

新田義貴映画監督、ジャーナリスト

沖縄の伝統音楽というと、何を思い浮かべるだろうか?まずは「安里屋ユンタ」や「てぃんさぐの花」、ではないだろうか。これらは沖縄民謡と言われるジャンルの楽曲である。実はこうした民謡より古い音楽がある。「琉球古典音楽」だ。
琉球王朝時代に首里城で生まれたとされる琉球古典音楽。この音楽を学び、継承し、若い世代に広く伝えていこうと挑戦するある女子学生の思いと活動を追った。

【首里城が焼けた日】
一昨年10月31日未明、首里城は炎に包まれた。読谷村の自宅で眠っていた大学生の照屋綺恵はなぜか夜中の2時頃に目が覚め、SNSを開くと友人たちが「首里城が燃えている」と書き込んでいた。すぐに飛び起き寝間着のままで車を運転して首里へ向かった。5時頃に大学に到着すると、グラウンドから首里城が赤々と燃えている姿が目に飛び込んできた。焼け落ちていく首里城の姿を見つめながら、「これからどうしたらいいんだろう?」と考えていたという。後に母親から聞いた話では、綺恵は飛び起きる前からベッドの上で泣き叫んでいたという。「普段はあんな時間に目が覚めることはないので、見るべくして見たのだと思います。見なければいけなかったから見たんだと思います、あの光景は。」

【首里城の目の前で“古典”を学ぶ女子学生】
沖縄には琉球王朝時代からの伝統芸能を学ぶことができる大学が存在する。首里城の目の前にある沖縄県立芸術大学だ。琉球芸能専攻コースでは40名の学生たちが日夜、琉球舞踊や琉球古典音楽の稽古に励んでいる。2年生の照屋綺恵もそのひとりだ。指導教官は琉球古典音楽の演奏者として沖縄県指定無形文化財(沖縄伝統音楽湛水流)保持者でもある山内昌也教授。窓の向こうに首里城が見える教室で個人レッスンが続く。「大学に入っていちばん驚いたのは、稽古場から首里城が見えることです。気持ちの入り方が違います。」綺恵にとって首里城は、古典音楽と切っても切れない存在だ。

【琉球古典音楽とは】
琉球古典音楽の歴史は300年以上前の首里城に遡る。当時沖縄は琉球王国という独立国家で、首里城は国王の居城であると同時に政治や外交、祭祀の場でもあった。中国や東南アジアとの交易で栄えた琉球王国は、外国からの使節をもてなすために泡盛や紅型など独自の文化を発展させた。琉球古典音楽もそうして発展した文化のひとつで、国王や使節の前で演奏されることで磨かれていった。三線の音色に琉歌(琉球の短歌)を乗せて歌われるのが基本で、箏や笛、胡弓や太鼓などで伴奏されることもある。自然の情景や男女の恋を歌ったものなど楽曲も様々だが、ゆったりとしたテンポで演奏されるのが特徴である。そこには琉球王朝時代の沖縄の人たちの多様で豊かな世界観が凝縮されている。やがて日本で明治維新が起きると、琉球王朝は廃止され沖縄県として日本の統治下に組み込まれた。失業した士族たちは生活のために町に出て音楽を披露するようになり、古典音楽は庶民の間に広がっていった。やがて庶民の好みに合わせテンポが早くなり、メロディも分かりやすいものとなっていき、これが沖縄民謡と呼ばれるようになっていったのである。
王朝時代の首里の空気感を伝えるとされる古典音楽は徐々に「堅苦しい」、「退屈な」音楽とみなされるようになり、尊敬はされるものの、庶民の感覚からは遠い存在となっていったのである。

【若者たちにとっての首里城】
首里城が焼失して以降、綺恵は琉球古典音楽を生み出してくれた首里城への思いを深めるようになった。そんな時に出会ったのが琉球大学4年生の稲福政志だ。政志は生まれも育ちも首里で、高校時代は毎日守礼門をくぐって通学していた。首里城内で綺恵が古典音楽を演奏しているのを見た政志が声をかけ、ふたりは知り合った。政志は首里城が焼けてから沖縄の若者たちに「一緒に首里城を歩こう」と呼びかけ、大学生ボランティアガイドを始めた。一緒に歩きながら首里城のことを学び、自分たちにとって首里城とはどういう存在なのか考えていこうと語りかける。これまであるのが当たり前だった首里城がなくなって初めて,その存在の重さに気付いたというふたり。綺恵は首里城で古典音楽を演奏することで多くの人に足を運んでもらい、首里城のことをもっと知ってほしいと思うに至った。そのためにもっと稽古を重ね、城が再建されるまでに琉球古典音楽の価値をさらに高めていきたいと語る。

【子供が三線と触れ合う場を広げる】
綺恵が三線を始めたのは小学校1年生の時。母親が地元の三線教室に応募して通うことになった。最初はいやいや始めたが、先生の話が面白くやがて三線も楽しくなっていったという。3年生からは沖縄民謡に加え古典音楽を習い始めた。やがてその独特のゆったりとしたテンポや旋律に魅了されていった。13歳で沖縄の新聞社が主催する伝統音楽コンクールで新人賞を受賞。本格的に琉球古典音楽の道に進むことを志すようになった。
綺恵は古典音楽を継承していくためには、子供のころから三線と触れ合う機会をなるべく多く設けることが大切だと考えている。okinawa41という沖縄文化を紹介するwebサイトに大学生レポーターとして古典音楽の普及を目的とした記事を書いている。その取材でかつて自分も通った「赤犬子子ども三線クラブ」を訪れた。この三線クラブは読谷村が主催する無料の教室で毎週土曜日に行われている。小学生中学生をレベルごとに4クラスに分け、地元の先生たちが指導している。芸能が盛んな沖縄でもこうした無料の三線クラブは珍しく、こうした地道な地域の取り組みがもっと広がれば、将来の琉球古典音楽を支える人材が育っていくのではないかと綺恵は期待を寄せている。

【若者に“古典”の魅力を広めたい】
首里城焼失から半年が経った去年4月、綺恵は同じ大学で箏を学ぶ大城綾音とふたりで琉球古典音楽ユニット「Re:finesse(リフィネス)」を結成した。もっと古典音楽のことを若い世代に知ってほしいとの思いから、洋服を着てアクセサリーも身につけ、ホテルやライブハウスなどでも演奏する。インスタグラムなどSNSでの発信も始めた。去年10月の首里城焼失1年を機に、城の夜景と大学での稽古の風景を組み合わせたライブ動画の配信も積極的に行っている。「若者にこれまで馴染みのなかった古典音楽を身近に感じてもらい、首里城や沖縄の歴史についても興味を持ってほしい」。もうひとつ、彼女たちが挑戦しているものがある。それは、沖縄の伝統音楽につきまとってきたジェンダーの問題だ。もともと首里城で士族が演奏していた古典音楽は、本来男性だけに許されたものだった。明治以降こうした慣習は少しずつなくなっていったが、いまだ女性の演奏者は少ないのが現状だ。また、国立劇場おきなわが募集する組踊研修生は、いまだ男性だけに限定されている。「今の時代は男性も女性も平等に音楽を奏でる権利がある。古典音楽の分野でも自分たちが積極的にそのことを発信していきたい」。綺恵の見つめる先には伝統を重んじながらも変えるべき所は変えていく、よりしなやかな古典音楽の世界がある。

監督・撮影・編集 新田義貴
撮影補助 松林要樹 知花あかり
プロデューサー 伊藤義子
制作 ユーラシアビジョン

映画監督、ジャーナリスト

1969年東京都出身。慶応義塾大学卒。NHK報道局、衛星放送局、沖縄放送局などで、中東やアジア、アフリカの紛争地取材、沖縄の基地問題や太平洋戦争などに焦点を当てた番組制作を行う。2009年独立し、映像制作ユーラシアビジョンを設立。テレビや映画など媒体を超えてドキュメンタリー作品の制作を続けている。劇場公開映画は、沖縄の市場の再生を描いた「歌えマチグヮー」(2012年)、長崎の被爆3世が日本の原子力の現場を旅する「アトムとピース〜瑠偉子・長崎の祈り」(2016年)。

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