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【河内長野市】灰原池の秘密を探る! 池が出来た背景と中学校建設で池の半分が埋められた経緯とは

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

市民の方はご存じの通り、河内長野市内には公園になっている寺ヶ池をはじめ、大小いくつものため池があります。現在も各地の水利組合が管理。そして市の北部には、寺ヶ池に次ぐ大きさを持つ池があります。その名前は灰原池(はいばらいけ)。

寺ヶ池から水を引いており、さらに近くの水田と500メートル先にある稲田池に通じています。灰原池がある場所ですが、南海千代田駅から、近鉄汐ノ宮駅に向かう途中。そして寺ヶ池に負けない歴史があるのです。

江戸時代の天保年間に、市村(現在の市町)にいた庄屋(江戸時代の村役人で、代官の下で実質的な村の政を行っていた首長)の杉村栄助により作られました。目的は灌漑用。当時は、市の東側を流れる石川以外での水源確保が困難で、ため池の存在は必須でした。

そこで杉村栄助は、この場所にため池を作ります。顕彰碑によれば、もともとあった小さな池を拡張したとか。この灰原池の誕生により、このあたりでの稲作が可能になりました。そして顕彰碑の左横にあるのが、杉村栄助の墓です。

杉村英輔の墓は、別の場所に当時の村人が建てていましたが、長く放置されていたので、平成の時代にこの地に移動しました。顕彰碑と共に杉村栄助の栄誉をたたえています。

時代が移り変わり、1974(昭和49)年に、灰原池の半分を埋め立てることになりました。理由は河内長野市立千代田中学校の建設用地の確保。このときに、7200坪に当たる池の南側を埋め立てました。そのために池の南側が直線になっています。

1976(昭和51)年に建てられたこちらの碑は、杉村栄助顕彰碑の左隣にあります。書いている内容は、子孫にあたる当時の市民が杉村栄助に充てたメッセージ。

中学生の学びの場を建てるために灰原池の一部を埋め立て(改修した)ことへの報告のような形で記載されていました。

引用:YAHOO!地図
引用:YAHOO!地図

このように灰原池とその周辺の地図を見るとよくわかります。薄茶色が埋め立てたところで、ちょうど中学校の敷地内となっていました。それを加えたところが、江戸時代に杉村栄助が拡張したころの灰原池の全容となります。

さらに灰原池の北側には、河内長野市立千代田小学校がありました。小学校と中学校が池を挟むように立地しているのがわかります。

千代田小学校の歴史は大変古く、1873(明治6)年に河内国第六番小学校として開校しました。当時は市村新田だった場所に作られましたが、1917(大正6)年に現在地でもある灰原池のほとりに移転してきたそうです。

そして池を臨むように、千代田小学校が移転したときの建物の設計担当者だった田中仁平の記念碑が、小学校の前に立っています。日頃は素通りしてしまいがちですが、近くに来る機会があったら、灰原池の歴史をもう一度再確認してみてはいかがでしょう。

灰原池
住所:大阪府河内長野市市町
営業時間:24時間自由入場可能(柵の中は不可)
定休日:無休
料金:無料
アクセス:南海千代田駅から徒歩8分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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