【河内長野市】美加の台駅ができる前、この場所にあった加賀田信号所。南海高野線の単線時代の名残はどこ?
河内長野市内は、高度経済成長期以降に数多の住宅地が開発されました。その中でも南海美加の台は市内でもっとも広く、3000世帯・12000人が住める規模を持っています。現在は、他のニュータウン同様の高齢化の影響で、実際の人口は2014年現在7617人だとか。
美加の台は南海電鉄が開発した住宅地ということもあり、美加の台駅が1984(昭和59)年9月に新設されました。
南海高野線自体は、美加の台駅ができる1984年まで単線でした。1915(大正4)年に紀見峠トンネルが開通したことから、現在のように長野駅(現:河内長野駅)から山を越え、和歌山県の橋本駅まで路線が続いたそうです。
ところで、この場所に美加の台駅ができる前は何もなかったかといえばそうではなく、加賀田信号所(かがたしんごうしょ)という施設がありました。信号所(信号場)とは、単線の時に使用される重要な施設です。
上の画像は、参考として紹介する近鉄長野線滝谷不動駅です。近鉄長野線は単線のため、この駅で電車のすれ違いを行います。
このように、単線の場合は反対側の電車とのすれ違いの場所が必要で、近鉄長野線の滝谷不動駅のように駅ですれ違う場合が一般的です。
しかし、南海高野線のこの区間は、宅地開発ができるまでは小さな集落しかない山岳地帯のため、次の駅までの距離が長く、駅ですれ違いをすることができませんでした。
そのため、電車のすれ違いをするのに最適な場所に「信号所」という複線の場所を設けていました。それが今の美加の台駅の場所に該当します。
その後、宅地開発が大阪府側だけでなく和歌山県側でも行われることになり、それまでの単線区間だった河内長野と橋本の間の複線化工事が始まりました。
1972(昭和47)年以降、段階的に工事が行われ、12年後の1984(昭和59)年に最後の三日市町駅と千早口駅の複線化をもって終了しました。このときに加賀田信号所が廃止され、代わりに美加の台駅が新設されました。
美加の台駅から橋を渡ると、加賀田信号所に該当する場所があります。ただし、現在、その場所は案内表示板や石碑なども残っていません。
そのため厳密な場所の特定は困難ですが、史料を見る限り、単線時代の線路は画像の川沿いの道路にあったとのこと。この近くに信号所としての複線区間があったものだと推定されます。
この加賀田信号所跡は、実は今でも、鉄道マニアが撮影に来ている隠れた人気スポット。歴史の1ページとして、どこにあったのだろうと想像を働かせて見るのも楽しいのではないでしょうか。