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【富田林市】嶽山城跡は、かんぽの宿富田林のテニスコートの裏!楠木七城のひとつ嶽山城は戦国時代にも登場

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

大阪50山にも指定されている嶽山(だけやま)は、標高278メートル。山頂付近までは自動車で行ける道が通じており、ほぼ頂上に「かんぽの宿富田林」があります。

富田林駅からかんぽの宿まで無料送迎バスが出ているので、車でなくても山の上までは簡単に行けます。また、あまり知られてはいませんが、その嶽山には中世の城跡、嶽山城跡(だけやまじょうあと)があります。

かんぽの宿富田林
かんぽの宿富田林

嶽山の中腹にある寺院「龍泉寺」にちなんで、別名「龍泉寺城(りゅうせんじじょう)」とも呼ばれるこの山城は、かんぽの宿から簡単に行くことができます。

行き方は、敷地内のテニスコートを目指してください。

そしてテニスコートのいちばん左端の小道を歩けば、案内板のある城跡の前に出ます。

山頂の木にかかっていた山岳会のプレート
山頂の木にかかっていた山岳会のプレート

城跡のところに、嶽山山頂として、山岳会などが登ったプレートがのこされていました。ところでこの嶽山城ですが、中世・南北朝時代に楠木正成が築いた楠木七城のひとつ。位置的に、正成が居城として築いた他の城、上赤坂・下赤坂・千早の各城に向かう入り口にあたります。

実際に城を守っていたのは、南朝方に属している佐備氏(さびし)でした。やがて1337(建武4)年に、北朝方の細川 顕氏(ほそかわ あきうじ)が攻撃。この戦いは激戦となりましたが、佐備氏が陥落し、北朝方に城を奪われてしまいます。

しかし、すぐに南朝方が奪還。時代が下り、1360(正平15)年に再度北朝方が攻撃を仕掛けてきます。

嶽山城を正成の三男、楠木 正儀(くすのき まさのり)らが、1000人兵をこの城に集めていましたが、北朝方の細川 清氏(ほそかわ きようじ)と赤松 範実(あかまつ のりざね)の兵が攻撃。この戦いに勝利した北朝方が嶽山城を完全に制圧します。

その後、北朝方の足利幕府から河内守護を命じられた畠山氏(はたけやまし)の城となります。

河内長野市三日市町にある畠山氏ゆかりの増福寺
河内長野市三日市町にある畠山氏ゆかりの増福寺

さらに時代が変わり、戦国時代の直前に、再び嶽山城が戦いの舞台となりました。1460(長禄4)年に畠山義就(はたけやま よしひろ)が嶽山城に籠城します。これは畠山氏の後継者争いでした。

畠山家の家督や守護職などの地位を畠山義就から奪った従弟の畠山 政長(はたけやま まさなが)が義就を朝敵(天皇や幕府の反逆者)として攻撃したため、義就が嶽山城に立てこもりました。

この嶽山城の戦い(だけやまじょうのたたかい)は2年以上も続き、畠山義就が城にこもって幕府軍と戦います。最終的に城は落城しますが、義就はいったん高野山、後に吉野方面に逃げ、後継者争いの決着がつきませんでした。

この戦いの影響で、畠山氏だけでなく、足利将軍家や斯波氏(しばし)でも後継者争いが起こり、やがて応仁の乱、戦国時代に突入します。

嶽山城は、戦国時代の1508(永正5)年にも、畠山 義英(はたけやま よしひで)と細川 澄元(ほそかわ すみもと)との間で戦いが行われましたが、その後廃城となりました。

そして現在は、かんぽの宿富田林の横にひっそりと残り、寂しいことに案内板や石碑がないと城があったことすらわからない状態。まさに、「国破れて山河有」を地で行く形となっていました。

嶽山城 (龍泉寺城) 跡
住所:大阪府富田林市龍泉880 
アクセス:近鉄富田林駅からかんぽの宿富田林行き送迎バス乗車。
     かんぽの宿富田林から徒歩3分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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