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【富田林市】近鉄長野線から見える嬉の「金刀比羅神社」移築前に吉本興業との関わりがある意外過ぎた過去?

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

近鉄長野線を河内長野から富田林市内に向かう途中、車窓からは石川の対岸にある、市内の気になるスポットが見渡せます。例えば汐ノ宮駅から見える願昭寺(がんしょうじ)の朱色の伽藍のインパクトは絶大。

そして河内長野駅と汐ノ宮駅の間で車窓から石川方向をながめていると、画像のスポットが見えてきます。見えにくいですが、よく見ると「比羅神社」と書いていました。これは、嬉(うれし)の金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)です。

金比羅神社とは、香川県の琴平町にある金刀比羅宮(ことひらぐう)を総本宮とする神社のグループで、全国に約600社あります。大物主神(おおものぬしのかみ)を主祭神に、合わせて崇徳天皇(すとくてんのう)を祀っています。

ちなみに崇徳天皇は退位後の上皇時代、平安末期に起こった保元の乱(ほうげんのらん)で、後白河天皇派に敗れ、その後讃岐の国(香川県)に流されました。崇徳上皇の死後に怨霊となって、都の人々を苦しめたという伝説があります。

嬉の金刀比羅神社は、横山から河内長野方面に向かう街道沿いの途中に、石川方向に下る先にありました。

金刀比羅宮と全国の金刀比羅神社は、19世紀中頃以降、特に海上交通の守り神として海に関する職業の人たちから信仰されてきています。ところでこの嬉に元々から金刀比羅神社があったわけではなく、別のあるところから移築されてきました。

参考画像:大阪ミナミの道頓堀
参考画像:大阪ミナミの道頓堀

嬉の金刀比羅神社が元々あった場所は、なんと大阪市内の千日前です。今でこそ道頓堀や難波と一体化したミナミの繁華街ですが、江戸時代のころは大阪近郊の農村で、大坂の陣の後にできた千日墓地が地名の由来。また死刑を執行する場所や火葬場もありました。

このころに四国の金刀比羅宮から霊を分けてもらい、金刀比羅宮の分社を千日前に安置しました。そして地域の人たちの信仰心が篤く、お参りをする人が絶えなかったと伝わります。

金刀比羅神社の本殿
金刀比羅神社の本殿

転機が訪れたのは終戦後。千日前という場所がミナミの一等地ということもあったのでしょうか?金刀比羅神社の土地を目の前に本社があった吉本興業が取得を希望することに。その流れで四国の金刀比羅宮との交渉により、そのまま吉本興業が土地を所有しました。

そのとき、金刀比羅宮は吉本興業にある約束を取り付けます。それは文化施設の入ったビルを建てるということ。その結果文化施設である大阪府立上方演芸資料館 (ワッハ上方)」(外部リンク)が、金刀比羅神社跡のビル内に入居しました。

境内の本殿の左奥にある摂社(末社)の末廣稲荷
境内の本殿の左奥にある摂社(末社)の末廣稲荷

こうして金比羅神社は、富田林の嬉の現在地に移築されました。現在は石川対岸の河内長野市にある千代田神社の宮司が、嬉の金刀比羅神社の宮司も兼ねているとのこと。

そのような経緯から、富田林市内のほかの神社と比べると、地元との馴染みは少し薄いそうです。元々の氏子の子孫は北摂地域の方だとか。

末廣稲荷のさらに左奥にある摂社(末社) 詳細は不明
末廣稲荷のさらに左奥にある摂社(末社) 詳細は不明

訪問時は、私のほかに誰もいず、境内はひっそりとしていました。

境内から石川と対岸の河内長野方面を眺めてみました。川の先に近鉄長野線の線路があります。いつも近鉄長野線から見える金刀比羅神社。その意外過ぎる歴史・由来を知ると、車窓から見える神社のイメージが、大きく変わった気がします。

金刀比羅神社
住所:大阪府富田林市嬉550−1 
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩15分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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