【河内長野市】石仏地区の名前の由来とは?住民の手で再興した石仏寺と歴史的穴場「大師の井戸」を見ました
河内長野市内には、住宅地ができてから誕生した新しい地名と昔ながらの地名が混在していますね。その中でもインパクトが強い地名のひとつに、石仏(いしぼとけ)があります。
石仏という漢字からは町で見かける地蔵菩薩など、石でできた仏を連想しますが、なぜこのような地名が残っているのでしょうか?実際に行って確かめてみることにしました。
石仏は、南海高野線美加の台駅のすぐ近くにあります。駅から美加の台方向と逆に歩けば、すぐに見えるのが石仏の交差点。
石仏の集落にあるものとして、最初に思い浮かんだのが石仏寺。ということで地図を頼りに石仏寺を目指しました。石仏の交差点からは国道371号線を南方向に少しだけ歩きます。
石仏の次の交差点、石仏南交差点のところでは、国道と石仏バイパスに分かれるところがあるのですが、ここは高野街道の旧道と合流する場所。ここで国道と反対側、旧高野街道を三日市方面に歩きます。
少し上りになっている高野街道を歩くと、石仏寺はすぐに見えてきました。
ちょうど上に見えている建物が石仏寺です。
石仏寺に到着しました。ここはかつて真言宗、後に融通念仏宗となった、曼陀羅山 阿弥陀寺(まんだらさん あみだでら)がありました。
江戸時代に栄えたと伝わりますが、明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく=仏教を排斥し、寺などを壊すこと)の影響を受けたためか、1875(明治8)年に廃寺となってしまいます。
しかし、地域住民たちの力で、つい最近、2005(平成17)年に石仏寺として再興されました。
石仏寺の前です。ちょうど、寺院内では地元の方たちが集会をしていて、その話し声が聞こえてきました。
石仏寺についてさらに調べると、810~823(弘仁年間)年に空海が創建したそうで、平安中期の頃には八角形の柱を使った建物があったそうで、弘法大師(空海)による次の伝承が残されていました。
つまり石仏の地名のきっかけが、空海の彫った石仏だったのです。画像は宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、1724(享保9)年の銘がありました。
さらに別の情報では「空海が高野山の北方の結界(けっかい)として、石仏を祀って安置した」というのを見つけました。そして確認したところ、寺の中には、空海が見つけたという光る石で彫られた本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)像が安置されています。
石仏寺から続く上に登る道には、石仏寺の奥から石仏城跡に続きます。その城跡は、コブのように見える山中にあり、左から2番目のコブの右上あたりだそうです。
石仏城跡は、楠木正成が見張りのために築城した伝承の残る城で、戦国時代にはこの地域の土豪・甲斐庄氏(かいのしょうし)が城主をつとめたとか。
しかし、城跡に向かう山の中は、実際に登った人の情報を見る限り、藪を刈りながら登るようなことが書いてありました。登山初心者の私からすれば、結構難易度が高そうだったので、今回行くのは見合わせました。
これが石仏寺の由来などを書いてある説明版です。詳しく読んでみると、空海というより地元の人が親しみを込めて石仏の地名がついた模様です。
江戸時代になり、1697(元禄10)年の寺の火災によって記録を失いつつも、村人や観心寺の僧らの力で再興されたとあります。つまり、これまで2度再興された寺ということなのです。
しかし、ここで気になる文言を発見しました。説明版の一部を引用します。
「大師の井戸」一体それは何か?地図にもないので、実際にどこにあるのか、付近を探してみることにしました。
案内板には「すぐ北側」とありましたが、境内にはなさそうです。ということで高野街道の旧道を北側に歩いて探してみることにしました。
どうしてもわからなかったので、何人かの地元の人方に場所を聞いてみます。すると、この道を左に曲がることがわかりました。
先ほどの道を曲がって歩いていきます。
そして井戸らしいものを発見。大師の井戸で間違いないようです。
立派な大きな井戸は、今も水を蓄えているようです。「大師の井戸」と称するところは、この周辺を含めいろいろなところにあるけれど、ここは情報に出てこない穴場のような場所です。
井戸の中の水の様子を撮影しました。底にある砂が見え、とても綺麗な水を蓄えています。街道から離れた人目の付かないところにありながらも整備されており、地元の人から今も大切にされていることがわかります。
こうして、美加の台の駅近くにある石仏地区を探訪しました。2度も再興した石仏寺の歴史と、その北側にひっそりとある大師の井戸。もし近くに来る機会があれば、ぜひ立ち寄ってみて、空海の軌跡に思いをはせるのも一幸でしょう。
石仏寺
住所:大阪府河内長野市石仏532
アクセス:南海美加の台駅から徒歩5分