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【河内長野市】河内長野駅すぐのところに残る長野温泉の面影。昭和レトロと台湾九份を感じる町並みが今も。

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野駅は、南海高野線と近鉄長野線があるターミナル駅。西出口には、駅前広場とノバティながのなどのビルが並んでいます。しかし、東出口から少し歩いただけで、全く違う昭和レトロな空気に包まれた場所があります。

そこは石川沿いに存在した、長野温泉の歓楽街であった場所。今回はその足跡を歩いてみました。

長野温泉の源泉がある石川と天見川の合流地点
長野温泉の源泉がある石川と天見川の合流地点

長野温泉の伝承では、推古天皇の時代。聖徳太子が長野村古野(現:古野町)に、病気を治すために来たときにのことです。その場にいた老人が「境内の杉の木の根元にある泉を進ずれば、病は平癒すべし」といいました。

そして聖徳太子が言われた通りにその泉を飲むと、たちまち病が治ったとされ、太子が薬師如来を彫刻し、本尊したことで極楽寺が創建(開基)。そして病気を治した泉が長野温泉とされています。ちなみに長野温泉の泉質は、含炭酸土類食塩泉です。

行者岩の上に立つ弁天堂
行者岩の上に立つ弁天堂

長野温泉の湧き出ている場所は、イズミヤ河内長野店の手前にある、石川と天見川が合流する場所。修験道の祖・役小角(えんの おづぬ)が修行したと伝わる行者岩(ぎょうじゃいわ)と言われる地点です。

その岩は、上にある弁財天を祀る堂が目印で、下から温泉が湧き出ており「噴出井戸」とも呼ばれています。

極楽寺の河内大仏
極楽寺の河内大仏

温泉利用の正式な時期は不明ですが、高野街道の三日市宿が近いことから、平安時代の頃には温泉を利用していた形跡があります。温泉施設として最初に利用したのが、古野町の河内大仏のある極楽寺。

江戸時代から湯治客を入浴させていた説もありますが、正式には1906(明治39)年に「極楽寺温泉」として開業しました。1908(明治41)年には寺の敷地内に三笑館を開館し、当時存在した高野鉄道の広告にもその名が登場します。

しかし大正時代になると、寺の趣旨に背くという理由で境内の温泉場や料理屋などが撤去されてしまいます。

極楽寺温泉は無くなりましたが、その後高野鉄道の長野駅(現:河内長野駅)の周辺に極楽寺温泉と同じ源泉を使った旅館が次々と誕生し、歓楽街が形成されました。

その後1960(昭和35)年には、長野町観光協会が中心となり、極楽寺から温泉権利の譲渡、大阪府から河川敷の使用許可を得て、正式に長野温泉街となりました。

長野温泉街は1960年代に最盛期を迎え、7件の温泉旅館がありました。その後は残念ながら衰退の一途をたどり、現在温泉旅館として営業を続けているのは河内長野荘(外部リンク)だけとなってしまいました。

そのほかに、温泉旅館ではありませんが、八重別館(外部リンク)おばな旅館「富貴亭」(外部リンク)が料理旅館として現存しています。

温泉旅館は激減しましたが、駅から歩いてすぐのところには元温泉街としてのレトロな雰囲気が残っています。画像は河内長野駅東出口から北方向に進んだところ。

右手に八重別館の看板があり、非常に細い路地があります。

少し急な階段を下りていくと、レトロな橋が石川にかかっていました。

この橋は黄金橋(こがねばし)と呼ばれる橋。昔は木造でしたが、1959(昭和34)年に石川が氾濫した時に流されたため、今のコンクリートの橋にかけ替えられました。

実際に橋を渡ってみましょう。

橋の上についている外灯なども、昭和レトロの雰囲気が今も残っています。

そして橋から石川を眺めてみました。岩場のようなところがあり、どことなく温泉地の雰囲気が残っています。

橋を渡った直ぐのところは住宅街になっていますが、右側に少し歩いたところに現在も営業している八重別館が見えてきました。

ちなみに、おばな旅館「富貴亭」は橋を渡らずに、駅側からまっすぐ歩いたところにあります。

八重別館の隣に、昔は旅館だったような古い建物が残っています。

そして非常に古い地図も残っていました。地図上で見ると、この近くにかつてはラドンセンターもあったようです。

原町にある生登福祉介護サービスセンター
原町にある生登福祉介護サービスセンター

ラドンセンターはその後、生登福祉介護サービスセンターとなり、原町に移転しました。現在は貝塚市の松葉温泉から天然温泉のラドン(外部リンク)を利用しています。

レトロな地図にはまっすぐ右に続く道と、左の上に続く道があります。先に右側を歩いてみました。

左に水路があり細い道が続いています。

しばらく歩くと、右手に石川が見える場所があります。

やがて建物が見えてきましたが、この建物の先には橋が架かっており、そのまま奥河内さくら公園(長野公園)や清教学園に続く道があります。

ということで今来た道を引き返しました。

先ほどの分岐点に戻ってきました。ここに気になる絵があります。猫が横を向いた階段の坂。赤い提灯の雰囲気からして、この絵は台湾の九份(きゅうふん)ではないかと想像されます。

確かにここからの道は、九份のように階段状で急な坂になっています。

階段の横には、複数の建物を渡り廊下で結んでいる木造建築物が残っていました。

趣のある建物ですが、今は使用されていないようでした。

その一方で、建物の坂の上の部分は、新しく工事をしている様子も見ることができました。詳細は不明ですが、新しい持ち主の方がカフェを作ろうとしているという噂も聞きました。もしかしたら、今歩いてきた坂道を、九份のようにする計画があるのかもしれません。

さらに坂を上がっていくと、立派な建物が見えてきました。これは河内長野荘。今通ってきた道は、河内長野駅から河内長野荘に向かうルートにもなっています。

ということで、長野温泉の古い町並みを歩きました。河内長野駅からすぐのところなのに、ノスタルジックな雰囲気を感じる場所でした。

今回歩いたところ
今回歩いたところ

長野温泉街の建物
住所:大阪府河内長野市末広町
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩5分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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