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【河内長野市】お正月だから歴史を振り返ってみよう!河内長野市ができるまで地域名として残るかつての村々

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

皆様、新年あけましておめでとうございます。

2022年、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

外環状線沿いのチェーン店以外、お正月は開いているお店もほとんどなく、自宅でゆったりとした時間を過ごすことが多いでしょう。こんなときこそ気になる地元について、調べものをしてもよさそうです。

私は河内長野市ができるまでの様子、地名との関係が大変気になりました。なぜかといえば、今は河内長野市ではありますが、古い年配の方の中には市内市外無関係に、「長野」と呼ぶ人がいます。これは旧南河内郡長野町だったころの名残ですね。

厳密な理由はわかりませんが、今でも近鉄長野線の河内長野行きの電車の表示に「長野」と書いているものがあります。

先に長野県長野市があったので、地域の河内をつけて河内長野市になったのが1954(昭和29)年。しかし長野町がそのまま河内長野市になったのではなく、周辺地域の5つの村を合併して成立したんだそうです。

さて、長野町、三日市村、川上村、天見村、加賀田村、高向村の6つの自治体が合併して河内長野市が誕生しました。

河内長野市を構成する6つのそれぞれの自治体は、河内長野市となる前、1889(明治22)年に町村制(ちょうそんせい)と呼ばれる、町と村の制度を統制・管理した際に出来上がりました。

これは明治の大合併のようなもので、それまで江戸時代以前から存在していた小さな村が、ある程度まとめられたのがこの制度です。

そして長野町だけはほかの5つ自治体(村)と違い、1954年の河内長野市制に移行するまでに、3つの自治体(長野町、千代田村、天野村)が合併してできたものです。少しわかりにくいですが、昔の町村がいっしょになって今の河内長野市を作っているということなのです。

それでは現在の河内長野市を構成する、かつての自治体をひとつずつ見ていきましょう。

1、旧長野村(町)

最初は、河内長野市の長野の中心と言える旧長野村です。河内長野駅や市役所がこの中に含まれます。ちなみにこちらの画像は当時の村の領域をイメージづけるために現在の地名の場所を合わせながら大まかに描いてみました。

なお河内長野市の外の自治体名は、紛らわしくなるので、すべて2022(令和4)年1月1日現在のものを使用しています。

この場所には江戸以前には、長野村、古野村、西代村、原村、上原村、野村、惣作(そうさく)村がありました。この中で野村と惣作村は、1883(明治16年)で合併し、野作村になります。そして1889(明治22)年に上記すべての村が合併して、新たに長野村ができました。

西代神社
西代神社

ちなみに現在の長野町、本町、菊水町、末広町、古野町、本多町、西代町、錦町、栄町、原町、野作町、西之山町、昭栄町、寿町、上原町、上原西町が該当します。つまり原町や西代町など、今の地名になっている名前の中に、村だった名残りがあります。

ちなみに長野村は、1910(明治43)年に、長野町になりました。

2、旧千代田村

旧千代田村は、現在の南海千代田駅や近鉄汐ノ宮駅を含んだあたりで、市の最も北側になります。実は1889(明治22)年の合併当初は千代田村ではなく、市新野村(いちしのむら)という名前でした。これは市村、市村新田、向野村が合併してできたものです。

以前の村から一字ずつ取って作った名前だけに不自然だと、大阪府から4回も名称変更の通知が来たとか。結局1916(大正5)年に、江戸城の別名「千代田城」に因んで、千代田村になりました。千代田という名前の由来は、実にすごい名前だったんですね。驚きました。

寺ヶ池
寺ヶ池

ところで、市村新田の新田というのは、昔からの村とは別に、新たに開墾してできた田畑のこと。こちらの資料(外部リンク)を参考にすると、どうやら江戸時代に改修された寺ヶ池によって、新たに耕作された新田のようです。

ちなみに現在の、楠町東、楠町西、松ケ丘東町、松ケ丘中町、松ケ丘西町、木戸、木戸西町、木戸東町、木戸町、千代田南町、市町、汐の宮町、向野町、桐ケ丘、自由ケ丘、あかしあ台、小山田町、北貴望ケ丘、南貴望ケ丘、千代田台町が旧千代田村に該当します。

3、旧天野村

旧天野村はこういう場所が該当します。寺ヶ池から天野山金剛寺、関西サイクルスポーツセンターあたりが該当し、ちょうど現在の市の西北のあたりが該当しています。

天野山金剛寺
天野山金剛寺

天野村は、1889(明治22)年に小山田村、下里村、天野山村が合併したもので、現在の小山田町、荘園町、下里町、緑ケ丘北町、緑ケ丘中町、緑ケ丘南町、天野町が該当します。

4、1940年3つの自治体が統合し長野町に

1889(明治22)年にできた自治体のうち、長野町、千代田村、天野村については、他の自治体に先んじて、1940(昭和15)年に合併しています。そうなると上の図の範囲が長野町になります。これが1954(昭和29)年まで長野町だった範囲です。

現在の市の中心部がここに集中していますが、面積で見ると北側の一部だったことが分かります。

ここまでを図にまとめてみました。

5、旧天見村

旧天見村の範囲です。市の南側に位置し、南海高野線の千早口駅と天見駅があります。

ここは1889(明治22)年以前に合併があり、1873(明治6)年には上天見村と下天見村が合併して天見村に、1875(明治8)年に上岩瀬村と下岩瀬村が合併して岩瀬村が誕生しています。

あまみ温泉南天苑の入り口
あまみ温泉南天苑の入り口

そのあと1889(明治22)年になって天見村、岩瀬村、清水村、流谷(ながれだに)村が合併しました。現在の天見、岩瀬、清水、流谷地域が該当します。

6、旧川上村

旧川上村の範囲はこちら。市の南東側にあります。この村には観心寺や河合寺があり、かつて河合寺村とか観心寺村という村の名前がありました。あくまで推測ですが、これは昔の荘園とか寺領だったのではと考えられます。

神ガ丘にある鬼住橋
神ガ丘にある鬼住橋

1872(明治5)年に寺元村がと観心寺村が合併して寺元村となったのち、1889(明治22)年に寺元村、鬼住村、河合寺村、鳩原(はとはら)村、太井村、小深村、石見川村と7つの村が合併しました。

そして現在の河合寺、寺元、神ガ丘、鳩原、太井、小深、石見川、美加の台の一部が該当しします。美加の台については河内長野市が誕生してからできた住宅地のためか、複数の古い自治体にまたがって存在しているようです。

7、旧三日市村

旧三日市村の範囲はこちら。高野街道の三日市宿があった三日市町駅を中心とした範囲になります。

三日市町の街並み
三日市町の街並み

三日市村は1889(明治22)年に三日市村、片添村、喜多村、上田村、小塩村が合併したとあります。そして現在の三日市町、喜多町、上田町、楠ケ丘西片添町、中片添町、東片添町、大師町、日東町、清見台、小塩町、南花台の一部が該当します。

余談ですが南花台も美加の台同様、河内長野市ができてから誕生した独立した地域のようですが、歴史を見ると小塩町の一部から誕生した記述を見つけたのでここに加えています。

ここまでを、時系列の図にまとめました。

8、旧加賀田村

旧加賀田村の範囲はこちら。市の南側が該当します。南海美加の台駅が含まれています。また美加の台の一部も、旧加賀田村を構成する石仏(いしぼとけ)地域と重なります。

石仏の交差点
石仏の交差点

加賀田村は、1886年(明治19)年に石仏村と新町村が合併したのち、1889(明治22)年に加賀田村、石仏村、唐久谷(からくだに)村が合併してできました。

そして現在の加賀田、唐久谷、石仏、北青葉台、南青葉台、大矢船北町、大矢船中町、大矢船南町、大矢船西町、南ケ丘、美加の台の一部が該当します。

9、旧高向村

旧高向(たこう)村の範囲はこちら。市の南西の結構広範囲が該当します。道の駅奥河内くろまろの郷や滝畑ダム、それから市の最高峰、岩湧山もこのエリアに該当します。

日野地区
日野地区

高向村は、1889(明治22)年に高向村、日野村、滝畑村が合併しています。現在の高向、旭ケ丘、日野、滝畑がこの地域に該当します。

まとめるとこんな感じです。

河内長野の場合は、○○台という新興住宅地が多いので、それらの場所は昔は山や丘などだったのですが、それでも周辺を見ると昔の村の名残の地名が多くあるかと思います。

お正月は新しい年の始まり、そして日本の伝統を最も感じるとき。住んでいる、あるいは生まれ育った河内長野市の変遷や過去の地名、歴史に思いを馳せてもみてはいかがでしょう。

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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