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【富田林市】百人一首で有名な西行法師。なぜ西行の絵巻が石川河川公園にあるのか、秘密を探ってみた!

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

平安時代末期の歌人で、小倉百人一首にも和歌が取り上げられている西行法師(さいぎょうほうし)。

嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる  わが涙かな

先日、石川河川公園に立ち寄った時に、彼の偉業を示した陶板が、かなりの長さで設置してあるのを発見しました。なぜ西行の絵巻が富田林市内の石川河川公園にあるのでしょうか?とても気になったので、そのいわれや秘密を探ってみることにしました。

西行絵巻があるのは、河川敷公園内に設けられた「西行うたのみち」という広場です。場所を説明すると、まず、富田林から河南町屋千早赤阪村方面に道が通じている府道705号富田林五條線を石川に向かい、石川に架かる金剛大橋を渡ります。

橋を渡った直後の「金剛大橋東詰」交差点を左折してください。そこから石川サイクルロード沿いを歩きます。北東方面に200mほど川を下っていき、石川支流の佐備川を越えた辺りから、西行うたのみちになっています。

ここが西行うたのみち広場です。見た目はどこにでもある河川敷の芝生公園に見えますが、よくみると画像の右側に陶板があります。

ここにあるのは、西行法師の生涯を描いた陶板です。西行とは、もともと佐藤 義清(さとう のりきよ)という名前の平安貴族でした。

貴族の子として成長したのち、鳥羽上皇の住む院御所の警備兵、北面武士(ほくめんのぶし)として奉仕していました。同時期には、後に天下の実権を握った平清盛も北面武士だったとか。

また歌人としても、このときに既に評価されており、何事もなければ歌人貴族としての生涯を終えるはずでした。

ところが、1140(保延6)年に、突然出家。西行法師となりました。出家の動機については友人の急死や失恋など複数の説があります。

出家後は各地を転々としながら草庵(そうあん)を結びます。これは粗末な小屋に静かに住むこと。ここで西行は、宗教活動や歌の創作活動を行いました。

やがて長旅に出るようになり、陸奥(むつ)の国や高野山、吉野にも足を運びます。また鎌倉では、後に幕府を開くことになる源頼朝に面会して、武道や歌道の話をしたという記録も残っています。

そして最終的に西行法師が向かったのは、南河内でした。石川の東、現在の河南町にある弘川寺を終焉の地として、寺の境内に草庵を結び、その地で1190(建久元)年に没します。

西行について、絵巻としての生涯が分かりやすく書かれているだけでなく、画像のように説明が付いた年譜までありました。西行法師のこと、平安末期のことを勉強するのにも、とてもわかりやすいと思いました。

参考画像:河南町の弘川寺本坊にある西行記念館
参考画像:河南町の弘川寺本坊にある西行記念館

河南町にある弘川寺の本堂の裏手にある小高い丘の上に、現在も西行の草庵・西行堂が残っています。

また別の陶板には、西行が実際に詠んだ17基の歌が刻まれていました。そのほかふたつの石碑があり、ここに西行の和歌が19首あります。

画像の石碑には次の歌が刻まれています。

ねがはくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの 望月のころ

西行が南河内に向かった際に、今の石川を眺めていた可能性があります。時代は違いますが、西行が見たのと同じ石川の流れを横に、平安の時代や西行法師に思いをはせる、そんなひとときを過ごしてみるのも新春らしい雅びな遊びかもしれません。

西行うたのみち広場
住所:大阪府富田林市山中田町1丁目9 
アクセス:近鉄富田林駅から徒歩15分
※駐車場はありませんのでご注意ください。

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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