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【富田林市】大伴黒主神社の謎。六歌仙に選ばれた近江歌人と豪族大伴氏を勘違い?村人が恐れた祟りの伝承も

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

市の東部、佐備川を渡った所に大伴黒主神社(おおとものくろぬしじんじゃ)という名前の小さな神社があります。入口が少しわかりにくいのですが、住宅地に挟まれた丘の中腹に位置しています。

ところで、この小さな神社は、歴史的にいろんな謎を秘めていることがわかりました。神社の名前の由来ひとつをとってみても、複数のエピソードがあり、どれが真実かわかっていません。そのひとつひとつを、ここでご紹介して行きましょう。

  1. 大伴黒主と富田林の大伴黒主神社の関係
  2. 富田林の大伴黒主神社ができたのはその場所にあった黒主の墓による怨霊?
  3. 大伴黒主神社のその後
  4. 大伴黒主神社の行き方

1、大伴黒主と富田林の大伴黒主神社との関係

参考:菅原道真を祀る道明寺天満宮
参考:菅原道真を祀る道明寺天満宮

神社名の大伴黒主(おおとも のくろぬし)とは、平安時代に実在した人物です。

日本では菅原道真に代表されるように、悲劇的な死が原因で恨みによる怨霊が現れ、人々を苦しめるために、その人を神として祀り怨霊を鎮める習慣があります。

神社になって祀られているということで、上記のようなエピソードがあることを知っていたため、当初私は、この大伴黒主も何らかの歴史的な事件に巻き込まれたのではないか?

悲痛な生涯を閉じてこの場所に祀られたのだと考えました。しかしどうも違うようです。

境内にある手水舎
境内にある手水舎

黒主は、近江の国の西にある滋賀郡(現在の大津市と高島市の一部)の大領(だいりょう:郡の最高責任者)でした。

さらに生まれは滋賀郡大友郷出身で、飛鳥時代の天智天皇の子・大友皇子の子孫ともいわれており、本当の苗字(氏、本姓)は大伴ではなく、大友ではないかという推測があります。

参考:現在の大津市
参考:現在の大津市

黒主は歌人として有名で、その歌は古今和歌集(こきんわかしゅう)などに収められております。さらに六歌仙(ろっかせん)という古今和歌集の序文に記された6名のひとりとして名前が載るほど。

近江で生まれ育ち、郡の役人を務めたのち、晩年は近江の志賀山中に幽栖(ゆうせい:静かに隠れるように住む)して生涯を終えています。その後、近江の土地の人たちが黒主を尊崇(そんすう:心から敬う)して、彼を祀りました。それが大津市志賀にある黒主神社です。

ところがなぜ、滋賀の黒主とは一見無関係な富田林に彼を祀る神社があるのでしょうか?彼の晩年は静かに過ごしており、人を恨むとか怨霊になるような気配はありません。

実は黒主の性(大伴)の勘違いがあったと考えられています。富田林を含めた河内の地は古代から大伴氏(おおともうじ)という豪族が支配していました。しかし後に伴氏(ともうじ)に名前を代えています。

黒主は、歴史的な文献では「大友」と表記されていますが、古典文学の資料には「大伴」と書かれているという、ややこしい状況になっています。つまり黒主の「大伴」と古代豪族の「大伴」がごっちゃになってしまったのではないかということ。

少なくとも滋賀の大伴黒主が活動していた平安時代、河内の豪族だった大伴氏はすでに伴氏と名乗っていましたので、直接のつながりはないと考えられています。

神社そのものの創建が、江戸時代の1826(文政9)年ごろなので、当時の人たちが、古代の豪族の子孫の中に、有名な歌人がいたのだと思いこんだのでしょう。

大伴黒主神社に向かう坂
大伴黒主神社に向かう坂

実際に河内豪族の大伴氏の中には、奈良時代の歌人で百人一首にも登場する大伴家持(おおとものやかもち)がいますので、余計に滋賀にいた大伴黒主を、河内豪族である大伴一族と思ってもおかしくありません。

ちなみに、現在でも大伴黒主神社の北側に、北大伴町、南大伴町という、豪族・大伴氏ゆかりの名前が残っています。

2、富田林の大伴黒主神社ができたのはその場所にあった黒主の墓による怨霊?

大伴黒主神社ができた経緯を紹介しましょう。実は面白い伝承が残っており、それはなんと怨霊によるものです。ただし、黒主は恨みを持って死んでいませんので、彼とは直接関係ない話。

かつてこの場所に古くから黒主夫婦の墓と伝わるものがありました。「夫婦塚」と呼ばれる小さなふたつの古墳です。

あくまで私の推測ですが、これは1、で記載した通り、平安時代の滋賀の大伴黒主は、河内豪族の大伴氏の一族と思い込んでいたことが、黒主夫婦の墓という伝承につながったと考えられます。

神社入り口にある祠
神社入り口にある祠

ところが、江戸時代に当時の村の農民たちが田畑を広げようと考え、この夫婦塚を壊して開墾してしまいます。

すると土の中から大きな黒蛇が現れます。驚いた村人は慌てて逃げました。しかし、それだけでは済みません。その日の夜、村で大火災が発生。半数近くの家を焼失してしまいました。

「これは大伴黒主様のたたりじゃ!」と恐れた村人たちは、改めて大伴黒主を祀ることにしました。これが、富田林の大伴黒主神社のはじまりなのだそうです。

大伴黒主神社の手前にある山中田町会館
大伴黒主神社の手前にある山中田町会館

ただし黒主の墓と思われていた夫婦塚ですが、平安時代には古墳を作る習慣がありません。黒主とこの地域との接点も皆無。文献等の資料も残っていません。

大伴黒主神社のすぐ北側を東西に通じている通り
大伴黒主神社のすぐ北側を東西に通じている通り

ここで、出てくるのが豪族の大伴氏です。神社の近くには、古代豪族大伴氏との関係がありそうな古墳時代に作られた西大寺山古墳群(さいだいじやまこふんぐん)がありますね。

加えて、今の西大寺山古墳群のすぐ近くに、かつて山中田(やまちゅうだ)古墳群が存在したとか。この古墳は今は開発されて存在しませんが、怨霊騒動の発端である夫婦塚は、山中田古墳群の中にあったそうです。

西大寺山古墳群と大伴黒主神社に挟まれるようにある住宅地かがり台のかがり1号公園
西大寺山古墳群と大伴黒主神社に挟まれるようにある住宅地かがり台のかがり1号公園

神社が創建されてからは、地元の氏子たちに大切にされているためだからでしょうか。それ以降には祟りのような事象は起こらなかったようです。

そして近年、1995(平成7)年から1997(平成9)年にかけて神社周辺で宅地造成が行われましたが、その際にも山中田古墳群(山中田1号墳)に関する多数の出土品が出てきたそうです。

3、大伴黒主神社のその後

参考:美具久留御魂神社
参考:美具久留御魂神社

明治政府の施策(明治末期の神社合祀)により、1909(明治42)年に大伴黒主神社は一時、美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)に合祀されましたが、戦後1957(昭和32)年に復社することになりました。

復社したタイミングで、地域住民の自宅敷地内に祀られていた牛の形代(かたしろ:神霊が依り憑くもの)をもつ牛瀧堂を(摂社:せっしゃ、その敷地に鎮座する本社に付属する小さな神社)として大伴黒主神社の境内に迎え入れました。

大伴黒主神社が2001(平成13)年に、新たな住宅地開発のために現在地に移転します。その際に新しく鳥居や狛犬が新たに作られました。だから社殿も新しいものだったんですね。

4、大伴黒主神社の行き方

神社に向かう手前にある、山中田町のだんじり小屋
神社に向かう手前にある、山中田町のだんじり小屋

最後に住宅地に囲まれているため、少しややこしい大伴黒主神社への行き方を説明します。最初に富田林駅から金剛バスで楠徳寺かがりホール前(大伴)バス停で下車。

バス停から40メートルほど南にある信号を右に曲がってください。府道705号線に入りますので、そこから130メートルほど進むと、左斜め前方に入る細い道に入ります。

すると山中田町会館の案内看板があるので、それを目印に進めば、画像のだんじり小屋が見えて神社の入口になります。

大伴黒主神社
住所:大阪府富田林市山中田町3丁目 
アクセス:近鉄富田林駅からバス。楠徳寺かがりホール前バス停から徒歩10分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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