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【河内長野市】堺から河内長野まで、西高野街道を歩いてみた!デジタルスタンプラリーに参加してみました

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

その土地の観光名所や歴史遺産を巡るデジタルスタンプラリーというものを、日本全国の自治体が期間限定で行っています。そのうち河内長野市では、現在、西高野街道をテーマにしたスタンプラリーを開催中です。

正式名称は【西高野街道】愉快・爽快・空海ウォーク デジタルスタンプラリー(外部リンク)」。このスタンプラリーに、実際に挑戦してみることにしました。

高野街道酒蔵通り
高野街道酒蔵通り

高野街道とは高野山に続いている道で、東高野街道、西高野街道、中高野街道、下高野街道と4種類の道があります。

このうち東高野街道は空海が都での拠点だった東寺から京街道をすすみ、石清水八幡宮のある京都府八幡市で分離。そこからは東高野街道として河内長野まで通じています。

今回歩いてみる西高野街道とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて作られた街道。堺の港からスタートしていることもあり、高野山やその手前の河内長野方面への物資の輸送に利用されたそうです。現在は並行して国道310号線と南海高野線が通じています。

最初に来たのは堺東駅。河内長野から電車に乗ってきましたが、これから再び河内長野まで、13の駅を歩いて戻ることになります。

堺東駅からいったん西に向かい、阪堺電車の通る道に向かいます。ここは大道筋で、大阪と和歌山を結ぶ紀州街道です。西高野街道に分岐するところ、大小路駅(おおしょうじえき)まで来ました。

そして大小路駅前の交差点の一角に、最初のスポット、晴明辻跡の石碑がありました。この大小路という地名は室町時代に既にその名前があったそうで、ここは摂津国と和泉国の境(さかい)であることから、堺の名前の起源になったと言われています。

さらに、平安時代に陰陽師の安倍晴明が占いを書いたものを埋めた場所らしく、そこで晴明(占)辻とよばれるようになったとか。ここで占いをすれば必ず当たると、石碑の横にある掲示板に書いてありました。

ここで、アプリでセットしたスタンプが反応しました。11時23分、いよいよ西高野街道のデジタルスタンプラリーのスタートです。

さて、紀州街道から西高野街道に分岐するこの場所は、もうひとつ竹内(竹之内)街道の分岐点でもあります。竹内街道のほうが歴史が古く、日本初の官道ともいわれるほどの道。堺市からそのまま東に、太子町や奈良方面に続いています。

隣にある西高野街道の説明版。堺から南河内方面への物資を運ぶルートなので、中世以降に特に発展したそうです。

まず堺の官庁街の横を通って、大仙公園方面に向かいます。

迷わないように電信柱にも表示があります。

官庁街を抜け南海高野線の踏切を越えたあたりから細い道になり、古い雰囲気が残る街道となっていました。ところどころに地蔵堂も見かけます。

しばらく歩くと、道が二手(ふたて)に分かれています。その分岐点に石碑がありました。

ここが竹内街道との分岐点。西高野街道は右側の道です。

比較的新しい石碑です。下を見ると、それぞれの主要な行き先が彫ってありますが、竹内(竹之内)街道は富田林や千早方面に通じているようです。西高野街道は長野、三日市と書いてあり、同じ河内長野市内でありながら独立した存在のように扱われているのが面白いですね。

さらに歩くと陸橋がありますが、陸橋にも西高野街道とはっきり書いてあります。

陸橋を渡ってしばらく行くと、右手に小さな丘のようなものが見えてきました。これは世界遺産であり、世界最大級の大きさを持つと言われる大仙古墳(仁徳天皇陵)の手前です。

次のスポットが大仙古墳(仁徳天皇陵)の正面のところなので、いったん西高野街道からはなれました。

大仙古墳(仁徳天皇陵)の正面拝所です。

スタンプスポットは古墳の正面にある拝所ではなく、すぐ横にある大仙公園観光案内所。

こうしてふたつ目のスタンプをGETしました。時刻は12時39分。今回のスタンプは合計8か所集めますから、4分の1ですね。

そのまま西高野街道に戻るのが本筋ですが、ゴールまでの距離が長いので、少しショートカットしました。JR百舌鳥駅から西高野街道になっている国道310号線に向かいます。

国道310号線に合流してからしばらく歩くと、西高野街道に分岐する地点があります。

目印は梅北交差点。ただ厳密には交差点ではなく、その手前に左側に向かう道があるのでそこを進みます。

西高野街道を歩くと、このように地蔵堂が本当に多くあります。とても全部紹介できないほど。しかしこちらの梅北西地蔵尊は紹介しないわけにはいきません。

この地蔵堂には、地蔵の由来についての説明資料が無料で置いてあります。さっそく1枚戴きました。戦国時代と江戸時代に作られた大きな地蔵が1体ずつと、水子供養の小さな地蔵が2体、ここに安置しているそうです。

しばらく歩くと、少し新しい鉄筋の建物が続く場所に来ました。ここは中百舌鳥駅前。このデジタルスタンプラリーは数日に分けて歩いても許されるので、疲れたらここでいったん中断できます。

また、中百舌鳥駅ほど近くでなくても、西高野街道は並行して南海高野線が通っていますから、疲れるようならどこでも中断して、期間内であればまた別の日にチャレンジするのもありです。

私は、河内長野を目指して引き続き歩きます。正面に見えるのは大阪府立大学中百舌鳥キャンパス。いったん、国道310号線と合流します。

国道310号線からまた小さな道に入ります。この辺りは白鷺駅の近く。

白鷺公園のすぐ横を西高野街道が通っています。休憩するときにはこの白鷺公園をお勧めします。実はこの後西高野街道は住宅街が続き、休憩できる公園やトイレがまったくありません。

こちらは泉北高速線、西高野街道は堺市堺区から中区に入り、さらに東区との境界線付近を歩いていきます。

しばらく歩くと、古い建物が続く通りが見えてきました。

ここでスタンプをGETしました。場所は十二里石・関茶屋の街並み。時刻は13時57分です。

少し大きめの地蔵堂がふたつあり、拝んでいる人の姿がありましたが、西高野街道として重要なのは、その手前にある石碑「高野山女人堂十二里道標石」です。

また西高野街道はこの画像から右の道ですが、そうではなく分岐して上に向かって見える道沿いに向かうとその先に出雲大社大阪分祠があります。

しばらく歩くと、現在の主要街道と言える阪和自動車道の高架をくぐります。ここをくぐると中茶屋という地名のエリア。先ほどの関茶屋といい、この辺りに茶屋があって、休憩できるようになっていたことがうかがえます。

中茶屋エリアをすぎていくと、道がふた手に分かれているところがあります。石碑を見ると「右 かうや大ミ祢道、左 たき多に金剛山」と書いてあります。

「かうや」は高野で間違いないようですが「大ミ祢道」が非常に気になり調べてみました。これは大峯道を表しています。高野山からさらに先に続く道、あるいは途中分岐道になっているのでしょう。ちなみに「たき多に」は、滝谷で、その先が金剛山という意味ですね。

「右 かうや大ミ祢道」である西高野街道を進むと、空海が開いた真言宗の寺院があります。金龍山無量壽院 興源寺です。

境内では地元の子供たちが元気に遊んでいます。その子供たちを境内の地蔵菩薩が見守っているように見えました。

このほか境内には、堺市指定保存樹林のくすの木や五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀仏坐像があります。

ちなみに五劫思惟とは、この世に生きているすべてのものを救うために、五劫(43億2000万年の5倍)もの長期の間、物事を考え検討している阿弥陀如来ということです。

途中で地図があったので見てみました。河内長野市どころか大阪狭山市にもまだ到達していない状況。堺市の広さを痛感しました。

西高野街道を歩いていると、このように由緒あるレストランや割烹料理店のような高級店が何軒もありました。それらの飲食店は共通して、店名のところに「西高野街道」と書いてあり、明らかにそれを意識しているようでした。

果てしなく堺市が続いているなぁと思いながら、さらに西高野街道を歩いていると。

突然現れたこのごみ箱。そうです、大阪狭山市にようやく到達しました。ただしそれは進行方向から見て左側だけで、右側は引き続き堺市です。

本来ならこのまま西高野街道を河内長野まで歩きたいのですが、デジタルスタンプラリーは何故かその行為を許しません。途中で街道から大きく東に寄り道。狭山池の北側に位置する狭山池博物館に行く必要があります。

どこから西高野街道から出ればいいのだろうと思い、地図を見て検討。ちょうどこちらの剣先地蔵尊を過ぎたあたりで離脱することにしました。

この剣先という名前の由来ですが、江戸時代に大和川水系を航行していた貨物輸送船のことを「剣先船」と呼んでいたそうなので、ひょっとしたらそれと関係あるのかもしれません。

というわけでいったん、西高野街道から離脱。狭山池方面に寄り道しました。すると金剛山や大和葛城山と思われる山々が見えてきました。その見晴らしのよさにほっとすると同時に、河内長野が確実に近づいている気がしました。

やっとのこと、狭山池まで来れました。今の狭山池は水量が少ないので、籠神社の手前に龍神淵が見えています。

狭山池の外周を通って、ようやく狭山池博物館のスタンプを手に入れました。16時5分です。ここでお昼ごはん。途中で手に入れたサンドイッチをかじって、さぁ、再び歩きます。

狭山池博物館の手前に石碑がありました。「弘法大師堂建立碑」で大正15(1926)年のものだそうです。

途中で遭遇したのは、大阪狭山市のコミュニティバスで「循環バス」という名前のようです。河内長野の「モックルコミュニティバス」のような愛称はないみたいですね。

少しだけショートカットしましたが、府道34号線(狭山池通り)のあたりで西高野街道に復帰しました。そろそろ日の入りが気になる時間帯です。

しばらく歩くと、道がふたつに分かれています。ここは西高野街道と天野街道の分岐点です。

石碑には「右 あまの山 二 里、左 かうや山 十里」と書いてあります。一里は約4kmですから、あまの山(天野山金剛寺)までは8km、かうや山(高野山)までは40kmほど先ということです。

左の道を進んでいくと、下りになっています。堺市内ではほぼ平坦だった西高野街道も、大阪狭山市に入ると、このように高低差が出始めます。

ちなみにこれは「おわり(尾張)坂」と呼ばれているそうで、一説では私とは逆方向、つまり高野山から堺に帰る際にこのあたりが最後の急な登り道になるからだとか。だから「終わりの登り道」という意味でそのようにつけられたそうです。

下ったところ、おわり坂の交差点では次のスタンプをGET出来るスポットが待っていました。5番目は牛滝地蔵尊です。この時点で時刻は17時10分です。

こちらが牛滝地蔵尊です。狭山池に流れ込む三津屋川沿いにあり、1867(慶応3)年に半田村の喜助という人物が寄進したとか。「しもやけ」や「あせも」といった、皮膚系の病に御利益があるそうです。「足の地蔵」とも呼ばれているとか。

ここから西高野街道は三津屋川を渡り、さらに南下していきます。

街道の西側には、帝塚山学院大学狭山キャンパス、狭山ニュータウンが広がる辺りを歩いていきます。

陶器山通りです。この道を直進すれば、狭山ニュータウン。西の方ではちょうど日の入りが見られました。どうやら河内長野に到着するのは夜になる見込み。

茱萸木(くみのき)地区に来ました。ここには地蔵堂をさらに建物で守る玄晶法師地蔵(げんしょうほうしじぞうそん)があります。

江戸中期明和年間(明和六丑天)七月六日との刻印が台石にあり、綿辰という人が施主だったとか。

玄晶法師という人について詳しい情報は見つかりませんが、酒が好きな人だったらしく、水の代わりに酒をかけて願い事をする地蔵なのだそうです。だから酒かけ地蔵と書いてあるんですね。

また歯痛・頭痛祈願ということで、歯や頭が痛い人はお酒を持参してぜひ参拝したいところ。

ため池があります。ため池を見ると南河内、河内長野が近づいてきたという気がします。市の境界線まであとわずか。

大阪狭山市と河内長野を隔てているのは天野川です。すっかり日が暮れてしまいましたが、ここでどうにか河内長野市に到達できました。

ついに河内長野市の看板が見えてきました。やはり河内長野市民としてこの標識を見ると安心しますね。

しかしもう夜です。ここまでくれば河内長野駅まで歩けなくはありませんが、暗い夜道だし、写真も良いものが撮れません。またゴールの河内長野観光案内所が開いているのは16時まで。

ということで次のスポット盛松寺まで行き、残りは翌日にすることにしました。

河内長野市内に入っても、西高野街道には地蔵堂がいくらでもあります。

完全に夜になりました。真ん中に見える光ですが、あれは千代田ショッピングセンターの西友です。

暗くて少しわかりにくいですが、ここは中高野街道との合流点。

いったん西高野街道から離れて少し坂を上ると、ゆず寺でも有名な盛松寺。この日最後のスタンプをもらいます。

6個目のスタンプは18時24分にもらいました。11時からスタートして、7時間余り。想像以上に時間がかかってしまいました。

楠町の地車小屋です。地車のような伝統的なものはやはり伝統的な街道沿いにあるようですね。

南海千代田駅沿いにある千代田あいあい通りまで来ました。ここでこの日の西高野街道のデジタルスタンプラリーは中断しました。

1日で回るつもりでしたが、軟弱な私は、翌日に続きを歩くことにしました。ここは昼間の千代田あいあい通り。時刻は14時過ぎです。

千代田ショッピングセンターにあるスーパーのばんばん。裏側の駐車場側の細い道が、西高野街道です。

淡々とゴールの河内長野駅を目指して歩いていきます。空手の道場などもあるんですね。

こちらは石坂の地車小屋です。住所は原町。

開けたところに出てきました。山々が見えていますね。

遠くに河内長野市役所が見えてきました。いつもお世話になっています。

西高野街道を歩くと、このように用水路をせき止める堰がいくつもあります。

大阪外環状線(国道170号線バイパス)との交差点まで来ました。

いよいよ長野小学校の校区内に入ったようです。ゴールがどんどん近づいてきています。

ここで7番目のスタンプをGETしました。原町の旧阿弥陀寺跡石造物群です。日をまたいだので参考にはならないかもしれませんが、14時44分です。

それがこちら、一見地蔵堂に見えますが、2体の地蔵の後にある石造物群には13体の小さな仏像が浮き彫りになっています。江戸時代のもののようで河内長野市指定の文化財です。

ここで堺方面から並行していた国道310号線と合流。ただし、コーナンPROを越えるとまた分離します。

分離する場所は、寺元記念病院が目印。病院から見て左側の道が西高野街道です。

地蔵堂を見ながら西高野街道を淡々と歩いていきます。近くには膳所藩の代官所跡を示す石碑もあります。

ここから下りになります。さらに道が大きく右に90度曲がります。

ここは本町公園の入口にもなっており、遠くには南海高野線、その先には近鉄長野線の線路が見えました。西高野街道が南海高野線と並行しているのに対し、東高野街道は羽曳野市あたりまで、近鉄長野線と並行しています。

このふたつの路線が河内長野駅で合流しターミナル駅になっていますが、高野街道も同時に合流するわけなんですね。

本町公園から道は西方向に向かいます。道は駅に向かって下っていきます。

長野商店街が見えてきました。西高野街道のクライマックスは長野商店街のアーケード。

ノバティ長野北館などアーケードをくぐったその先がゴール地点。

ついにゴール地点に着きました。東高野街道と合流し、ここからは高野街道となってさらに南に向かいます。

高野街道を説明している石碑です。

こうしてすべてのスタンプが集まりました。参考までに15時12分です。早い人なら1日で余裕で回れるのかもしれませんが、私は2日もかかってしまいました。

この後観光案内所でスタンプラリーが終わったという報告に行きましたが、その帰り際15時過ぎに別の人もスタンプラリーを終えたようです。朝が早ければ1日でクリアすることも可能ですね。

河内長野市観光案内所で、すべてのスタンプが集まったことを報告しに行きました。ゴールした参加賞は次の通りです。

  1. ソフトケース入りばんそうこう&綿棒セット先着600名様でなくなり次第終了。ちなみに私はまだもらえました。
  2. .アスマイル府民ポイント 500ポイント(希望者のみ)これはQRコードを読み取ると、ポイントを付与。(注:アスマイルの事前登録が必要です)

また、特賞として西高野街道周辺地域の特産品が抽選で当たるそうです。

三日市町
三日市町

こうして1日と1時間ほどかけて西高野街道を歩きました。しかし高野山への道のりは遠く、ここからは高野街道の酒蔵通りや三日市宿、千早口、天見といったスポットを越えて和歌山に行く必要があります。

ここから先はデジタルスタンプラリーとは無関係。でも機会があれば歩いてみたいと思いました。

【西高野街道】愉快・爽快・空海ウォーク デジタルスタンプラリー(外部リンク)は、2月28日まで開催しています。歴史を感じながらのウォーキング、興味があれば是非参加してみてください。

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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