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【富田林市】五軒家は江戸時代の新開拓地?金剛地区に近接するパワースポット五軒家神社にまつわる謎も紹介

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

富田林は東西ではまったく町の雰囲気が違います。外環状線から東にある寺内町とその周辺や石川よりもさらに東にある東條地区は、昔ながらの住宅や農地。それに対して西側は、羽曳野丘陵を切り開いて作られた金剛地区と金剛東の新興住宅街。

そういった町の特徴だからでしょうか?富田林にある由緒ある神社仏閣といった昔ながらのパワースポットは、主に市の東側に集中しています。

しかし、例外的に市の西北側、金剛地区に隣接するところにポツンとひとつだけパワースポットがあります。それは五軒家神社(ごけんやじんじゃ)。

五軒家神社があるのは、富田林五軒家地区。地図の反転した場所に該当します。金剛地区と金剛東地区といった新興住宅地に囲まれているのですが、ここだけはそれらの住宅地とは一線を画した昔ながらの集落です。

この五軒家という地名、名前の由来を確認すると面白いことがわかりました。

江戸時代廿山村(つづやまむら)にいた5軒の家族(岩根・小山・尾崎・上尾・置田<沖田>)は、廿山村と他の村との間に起きたイザコザ?が原因で、その場所にいるのが嫌になった可能性が高いと思われ、世帯ごと村を脱出して現在の五軒家地域に住むようになったとか。

※2022.3.7追記 新しい情報をいただきました。ありがとうございます。
現在の五軒家地域に住む前に、現在の藤沢台付近にいったん落ち着いたのではないかというコメントがありました。
また五軒の中に岩根家は含まれておらず、後から来た別の有力者との情報がありました。そうなるとほかの1軒がだれなのか気になるところですが、江戸時代の話なのであいまいなところも多少はあるのでしょう。引き続き新しい情報がわかれば追記します。

たどり着いた場所は当時何もない荒野だったようで、5軒の人たちは力を合わせて耕し、集落を作ったとか。やがてそれが地名となって五軒家町となったそうです。

つまり五軒家地区は、金剛・金剛東地区が開発されるよりもいち早く開拓されて作られた江戸時代の新興集落だったわけですね。

ということで、五軒家地区にある五軒家神社に行ってきました。金剛東地区から藤沢台の住宅地を西北方向に歩いていきました。

やがて住宅地が途切れ、その先に森のように緑に覆われているところが見えてきました。緑で覆われているところが五軒家地区で、その中に五軒家神社があります。

突き当りから左に曲がると神社に通じる道があります。よく新興住宅地と伝統的な集落の間に道がないことがあるのですが、五軒家神社についてはそのようなことがありません。

周回する道を歩いていくと、神社の境内にたどり着きました。五軒家神社の創建は不明ですが、五軒の家が開墾し集落ができていく過程で、神様を安置したものと推測できます。

境内に3つの社がありますが、牛頭天王社(ごづてんのうしゃ)だけは塀に囲まれた中にあるので、これが神社の本殿のようです。

こちらが牛頭天王社の社殿。牛頭天王とは神仏融合の神で、本来は仏教系で、釈迦の生誕地・祇園精舎の守護神だったそうです。

京都にある祇園、八坂神社では、日本の神である素戔嗚命(スサノオノミコト)と牛頭天王が習合(異文化の共存)しており、この五軒家神社も祭神として素戔嗚命と書いてありました。厄病と災厄を取り除いてくれるそうです。

現在の社殿は、1870~1871(明治3)年に岩根甚五と52人の村民により3ヵ月かけて建てられたとか。壁にある名前は、その当時のものでしょうか?寄進者の名前がずらりと並んでいます。

※2022.3.7追記:この件に対してコメントをいただきました。ありがとうございます。
五軒家神社の寄進者を書いた板は平成元年のだんじり修理の時のものとのことです。

さらに面白い記述があります。明治初年までは菅原道真を祀っていたのに、明治24年に河南町の神山から御神体を勧請(かんじょう:霊を分けてもらう)したとあります。

明治初年から24年までの間は何を祀っていたの?という疑問もありますが、少なくとも河南町から神様(牛頭天王・素戔嗚尊)を新たに呼んだようですね。

河南町神山
河南町神山

ただ現在の河南町神山には、千早川にある馬場地蔵と饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀っている鴨習太(かもならいた)神社しかなく、牛頭天王を祀っている神社がもう存在しないようです。

面白いのは、鴨習太神社も、五軒家神社同様に明治時代まで天満宮として菅原道真を祀っていたとのこと。関連性があるのかもしれません。

咸古神社
咸古神社

また近くで牛頭天王を江戸時代まで祀っていた場所として、富田林市龍泉にある咸古神社(こんくじんじゃ)があります。ちなみに現在の主祭神は神八井耳命(かんやいみみのみこと)。

これは完全に推測ですが、考えようによっては、咸古神社から神山にあった社に勧請され、さらに五軒家神社に勧請されたのかもしれません。真相は闇のまま。

こちらは牛頭天王社の横に祀られている稲荷社です。

稲荷社の横に祀られているのは五軒家えびすです。十日戎ではここに多くの人が参拝に来られるようです。

説明版にある通り、五軒家では植木の栽培が盛んで、五軒家苑栄組合が、えびす神を祀るようになったエピソードがあります。平成時代になってから社を建てたんですね。

帰りは五軒家の集落側になる正面の入口から階段を降りてみました。

ちなみに五軒家神社にはもうひとつ面白いエピソードがあります。明治末期に政府が管理しやすいように地域の小さな神社をある程度ひとつの神社にまとめる政策「神社合祀政策」というのがありました。

富田林市内にある由緒ある神社でも一時期、他の神社に合祀(ごうし:複数の神社の霊がひとつまとめられる)されて、戦後に霊を戻してもらったところも多いとか。

五軒家神社もその政策により他の神社に霊を合祀されかけたのですが、村人が御神体を隠して、政府の当局者に「ここは遥拝所(ようはいじょ:遠くにある神仏を拝むための場所)」と説明し、難を逃れたとか。

何もないところから五軒の世帯が集落にまで開拓し、結束が強いと思われる村人たちならではのエピソードだと感じました。

金剛の住宅街から西北のはずれにある五軒家地区と五軒家神社。比較的近くにあるので、休日など時間ががあったときに、ゆっくりと立ち寄ってみてはいかがでしょうか?

五軒家神社
住所: 大阪府富田林市五軒家1丁目12-19
アクセス:南海大阪狭山市駅から徒歩19分
     南海金剛駅からバス 藤沢台2丁目バス停から徒歩10分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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