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【河内長野市】源頼朝の叔父、源行家が拠点とした長野城はどこにあったの?烏帽子形城跡という説は?

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市をはじめ、千早赤阪村や富田林市の一部など、いわゆる奥河内と呼ばれている場所は、中世の武将・楠公(なんこう)さんこと楠木正成(まさしげ)ゆかりの地が点在しています。図書館に行けば、大河ドラマで楠公を主人公にしたいという署名活動も行っていますね。

しかし、今放送中の2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の登場人物の中に、奥河内と大きな関わりのある人物がいます。その名は源行家(みなもとのゆきいえ)。源頼朝からみて、叔父さんに当たる人物です。

その行家は、短期間とはいえ、奥河内にあったとされる長野城を拠点に、河内国や和泉国を支配していた時期があるというのです。

源行家
源行家

源行家は、権力者に取り入る交渉力や、人をあおる扇動者としての能力があったのだそうです。頼朝の父で行家の兄、源義朝が平治の乱(1160年)で殺された恨みを晴らすべく、頼朝に平家打倒の決起を促しました。

そのあと、同じく平家打倒に動いた源義仲とともに平家を西に追放して京都に入りましたが、後白河法皇や貴族などに取り入り、義仲よりも権力者に受けがとても良かったというのです。

参考:和歌山城(行家の時代は和歌山市周辺が紀伊国名草郡と呼ばれていた)
参考:和歌山城(行家の時代は和歌山市周辺が紀伊国名草郡と呼ばれていた)

それに嫉妬して不仲になった義仲を恐れて、京を脱出した行家は、播磨で平家の軍勢に敗れると、河内の国の長野城へ立て籠ったという記録があります。そのときは、義仲側の軍勢に攻めてこられ、これにも敗れて紀伊の国の名草(現:和歌山市周辺)へ逃げたそうです。

このように行家を追い詰めていた義仲ですが、頼朝側の軍勢に1184年に討たれ死んでしまいます。そのため、行家は紀伊の国からいったん京に、そして再び長野城に戻り、先祖の本拠地であった河内と和泉を支配し、半独立体制を築いたとか。

しかしながら自らが戦いに出ることはなかったため、今度は頼朝と対立します。一時は、同じく頼朝と対立していた義経と組むも、最後は頼朝側に捕らえられ、1186年に赤井河原(現:京都市伏見区)にて斬首されてしまいました。

烏帽子形城跡
烏帽子形城跡

さて、この行家が支配した長野城が河内長野のどこにあるかですが、地図などで調べても「長野城跡」というものは見つかりません。ただ可能性があるところの有力候補地のひとつとして、中世の頃に長野荘と呼ばれていた地域にある烏帽子形城があげられています。

※このほか、同じく正成が築城したとされる河合寺城跡とか河内長野駅の裏側の山「現:奥河内さくら公園」と推測している人もいるようです。

この長野荘の「長野」は長野村、長野町を経て河内長野市にも名前が残っていますから、それから見ても「烏帽子形城=長野城説」に信ぴょう性がありますね。

河内長野駅前にある木屋堂の掲示板
河内長野駅前にある木屋堂の掲示板

また別の話では、中世の頃、長野荘の中に木屋堂(こやどう)と呼ばれていた地域があり、ここに宿泊や休憩の施設があったとか。

長野神社:元々木屋堂の宮と呼ばれていた
長野神社:元々木屋堂の宮と呼ばれていた

当時の木屋堂は長野神社を中心としており、とてもにぎわっていた町だったそうです。長野神社自体も、明治維新より前には「牛頭天王宮」「木屋堂の宮」と呼ばれていたとか。

また木屋堂の名前の由来は、天見や滝畑、岩瀬等で伐採されていた木材が川を使って運ばれて、石川の合流点が集積場になっていたことに由来するそうです。

さらに、記録によれば、東高野街道と長野で合流する堺からの西高野街道が、平安末期から鎌倉時代にかけて出来たのだとか。

このことは、その同じ時代に長野城にいたとする源行家が、堺と長野の交易路としての西高野街道の形成に何らかの形でかかわっていたのではと、つい想像したくなります。

烏帽子形城は、木屋堂の長野神社からの距離も近く、小高い山の上にあります。

この城は楠木七城のひとつとして楠木正成が築城した山城というのが定説ですが、このように正成が築く前から長野(木屋堂)がにぎわっていたことから、行家がその場所に長野城を築いていてもおかしくはありません。

大阪市内にある大坂城
大阪市内にある大坂城

例えば大坂城は豊臣秀吉が築城しましたが、その前には戦国時代に戦国大名が手を焼いた一向一揆の総本山、石山本願寺がありました。あの織田信長相手に10年近く戦い抜き、比叡山のような焼き討ちではなく、朝廷の調停でようやく開城するほどの要塞だった寺院。

その寺院のあった場所が戦いの戦略上に優れていると秀吉が考えて、大坂城を築城したことはほぼ間違いないでしょう。同様に、源行家が拠点にしていた長野の城のことを、後の楠木正成が知っていて、そこに築城したと考える方がスムーズなような気がします。

しかし肝心の長野城については、平家物語などの文献上では出てきても、遺跡などが無いために幻の城のような扱い。いまだに推測の域を脱することができないことは、少し残念ではありますが、仕方がありません。

楠木正成は千早城の戦いなどで勝利し活躍した戦術家。それに比べると正成より150年ほど前にいた源行家は、口が達者で朝廷などに取り入るのはうまくても、実際の戦いは得意ではなく、周りに戦いをそそのかして自分は逃げ回っている時の方が圧倒的に多かったのです。

烏帽子形山の山上から見える河内長野市内
烏帽子形山の山上から見える河内長野市内

それでも正成よりも150年ほど前に奥河内地域を支配していたという事実。ひょっとしたら源行家が、城のある山の上から画像のように奥河内の風景を眺めていたのかもしれません。

源行家は大河ドラマでは主人公側(頼朝側)と敵対するようになってしまうので良くは描かれないと思われますが、それでも行家の存在感が奥河内にもう少しあってもよいのではと記事を書きながら思いました。

烏帽子形城跡(長野城跡?)
住所:大阪府河内長野市喜多町725-1 
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩25分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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