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【富田林市】後北条一族が創建に関わった?釈迦の生涯を立体像で表す、河内西国霊場第4番の龍雲寺

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

市の西北、大阪狭山市と接するところにある加太には、智福山龍雲寺(ちふくざんりゅううんじ)という、江戸時代に創建された寺院があります。

江戸時代、この辺りは狭山藩とのかかわりが深く、狭山藩主だった後北条(北条)氏が、このお寺の創建にかかわったと知りました。さて、それはどういうことでしょうか?

このお寺の宗派は、黄檗宗(おうばくしゅう)。これは中国明の時代、福建省出身で、江戸時代に来日した隠元隆琦(いんげん りゅうき)が、日本で開祖した教えです。

隠元は、あのインゲン豆を日本に持ち込んだ人!それで、あの細長い豆のことが、そう名づけられたのですね。

黄檗宗は禅宗の一派で、臨済宗(りんざいしゅう)の流れを組みます。隠元は、最初は正統派臨済の「禅(ぜん:精神を統一して真理を追究する修行)」を伝えるつもりで日本に来たとか。

隠元は、京都宇治にある黄檗山萬福寺(まんぷくじ)を総本山として建立。江戸幕府からの保護もあったために、一気に国内に広がったそうです。

また黄檗宗寺院の特徴として、七福神の布袋(ほてい)との関わりがあります。

布袋は、七福神では唯一実在の人物。9世紀に唐の後に建国された五代時代、最初の国、後梁(こうりょう)の話です。

当時の浙江省(せっこうしょう)地域にいた契此(かいし)という僧が布袋のモデルだそうで、大きな袋をもって行脚(あんぎゃ:諸国を歩きながら修行)していたとか。

布袋は弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身ともいわれ、黄檗宗では非常に重視されています。この龍雲寺でも、本堂の正面に布袋像が安置されています。

ではなぜ、この場所に黄檗宗の寺院ができたのでしょうか。

隠元の弟子筋にあたる人が、この地に来て開いたという単純なものではなく、もっと大掛かりな理由がありました。背景には、この地を支配していた狭山藩がかかわっていたのです。

狭山地車の右上にある後北条氏の家紋
狭山地車の右上にある後北条氏の家紋

狭山藩は、現在の大阪狭山市付近にあった1万石の大名家ですが、支配していたのは北条(後北条)氏という一族でした。かつて北条早雲(そううん)から氏直(うじなお)まで、5代続いた戦国大名の覇者で、関東一円を支配し、豊臣秀吉に最後まで抵抗したとか。

1590年に秀吉に滅ぼされましたが、5代目の氏直とその叔父・北条氏規(ほうじょう うじのり)は許され、高野山で蟄居(ちっきょ:家に閉じこもる)していました。

ちなみに北条氏なのに後北条氏と呼ばれているのは、鎌倉時代を支配していた北条氏とは無関係なので区別するためです。

やがて氏規が、秀吉から河内国狭山に領地を与えられます。それが江戸時代には狭山藩となり、明治維新まで続きました。

さてその狭山藩、江戸時代になってから少しでも領内の石高(こくだか:収穫できる米の量)を増やそうと、荒れ地を耕して新しい耕作地を広げます。加太新田(かだしんでん)もその中のひとつで、現在の富田林市内に入るエリアで大規模な新田開発を行いました。

狭山池
狭山池

その結果、各地から多くの農民が集められて無事に新田(加太新田)が完成しました。ところがふるさとを離れ、新天地である新田で生活することになった農民たちは「心のよりどころ、菩提寺が欲しい」と、藩主に申し立てたとか。

そこで狭山藩は、加太新田に寺を新たに建立することとなりました。ときは江戸中期、1724(享保9)年、五代藩主、北条氏朝(ほうじょう うじとも)は、独園和尚(どくおんおしょう)という僧侶を呼び、寺の建立のために支援します。

河内長野駅で停車していた石見川行きのバス
河内長野駅で停車していた石見川行きのバス

この当時狭山藩は、飛び地として、現在の河内長野にある石見川も領地としていたとか。独園和尚は、石見川にあった真言宗の寺院を加太新田に移転させるという大胆なことを行いました。

しかし、それだけではありません。独園和尚は移転させた寺院を黄檗宗に改宗させた上で、龍雲寺の住職となりました。

ではなぜ独園和尚は、真言宗の寺院をわざわざ黄檗宗に改宗させたのでしょうか?彼は恐らく黄檗宗の僧侶だったと思われますが、調べてもよくわかりませんでした。

あくまで推測ですが、もしかしたら北条氏朝が、加太新田の新しい寺院は黄檗宗にすべきと考えていて、黄檗宗の僧?と思われる独園に目をつけたというのもあるかもしれません。

北条氏朝
北条氏朝

氏朝をさらに調べると、幼少期に現在の堺市美原区にある黄檗宗の法雲寺で修行していました。藩主の地位を継いだ翌年、1697(元禄10)年には、当時の法雲寺住職だった黄檗宗の高僧・慧極道明(えごくどうみょう)と師弟の約を結び、以降北条氏の菩提所となりました。

つまり氏朝は黄檗宗の信徒だったのです。加太新田という新しい場所に来て不安になっている領民に、藩主として自分の信じている宗派の教え、その良さを知ってもらいたいという思いがあったのではないだろうかと考えられます。

龍雲寺は開山後、藩主北条家、狭山藩士そして加太新田の人たちの菩提寺として現代まで続きます。そして河内西国霊場第4番にも指定されています。

さて龍雲寺の境内を歩いていると、珍しいものがありました。これは釈迦の誕生を表したもの。この横からは、悟りを開いて仏教の教えを広めるまでを、立体的に表したものが並んでいました。

今は像がありませんが、以前はここに出家時の様子のものがあったのか、それともこれから作るのでしょうか。

こちらは悟りを開くまでの苦行のようす。あばらが見えて、痛々しいですね。後ろの花は、沙羅双樹の代わりでしょうか。

悟りを開いた時の姿です。前の姿と異なり、とても威厳のあるお姿ですね。

最後は説法ということで、教えを多くの人に伝える様子の像がありました。

このほか境内には、西遊記の三蔵法師でおなじみの玄奘三蔵の像もありました。

こちらは、墓石のようなものがかたまって山のように積み重なっていますね。中央に五輪塔?その周囲に墓?とか水子供養?のようなものがあって、まるでピラミッドのようになっています。ただ残念ながら、この意味は今回調べてもわかりませんでした。

境内にはトイレもあり、このような可愛らしい動物が支えているベンチがありました。

訪問時(2月中旬)は、境内の横の原っぱのような広い場所に、水仙の花が咲き乱れていました。

境内にある蓮池
境内にある蓮池

また情報によれば、龍雲寺は蓮の花でも有名だとか。今度は蓮の花の美しい時に再訪できればと思います。

智福山龍雲寺
住所:大阪府富田林市加太2丁目11-19
アクセス:南海大阪狭山駅から徒歩10分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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