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【富田林市】江戸時代にあったという幻の富田林藩とは?隠ぺいされている理由と秘密を探ると意外な事実が

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

富田林の歴史を調べていると、先日、初めて知った不思議なキーワードを見つけました。それは富田林藩という存在です。

富田林といえば寺内町。戦国時代の末期に、浄土真宗本願寺派の興正寺という寺院が、周辺の村人とともに作り上げた宗教自治都市ですね。中世の楠木正成が築いた山城など、一部の例外を除いて、武将とか殿さまが支配したイメージが少ないので驚きました。

狭山池、江戸時代にはこの池のあたりに狭山藩があった
狭山池、江戸時代にはこの池のあたりに狭山藩があった

南河内の藩と言えば、大阪狭山市のあたりにあった北条(後北条)氏の狭山藩が有名で、明治維新まで存在しました。

また短期間ですが、河内長野市にも1679年から1732年まで、西代藩として本多忠恒と忠統の2代だけが続いた例があります。そして陣屋(藩の屋敷)などの足跡は、河内長野市内に残っています。

西代藩の陣屋跡に立つ河内長野市立長野小学校の門は、陣屋の門をイメージ
西代藩の陣屋跡に立つ河内長野市立長野小学校の門は、陣屋の門をイメージ

ここで富田林藩についてweblio辞書の記述を見ると、おおよそ次のようなものです。

1684年に内藤重頼(ないとうしげより)が、摂津と河内の合計2万石を与えられて富田林藩ができ、重頼の死後は、甥に当たる清牧が1690年に後を継ぐが、翌1691年に信州高遠藩に転封(領地替え)になったとあります。

内藤家の資料を見ると、この信州高遠藩に関するものが多く、富田林藩の足跡などは見つかりません。また地図上で、富田林のどこかに石碑のようなものがないか何度も探しました。しかしそれすら見つかりません。

まるで意図的に歴史から隠ぺいされているかのよう。いったいこれはどういうことでしょうか?あまりにも情報がなくわからないので、富田林市の文化財保護課に問い合わせしたところ回答をいただきました。それによると富田林藩というのは歴史上実在しないとか。

歴史上実在しないから足跡がないというのは当然のこと。ではなぜこのような情報が出てきたのでしょうか?

内藤家の家紋は下り藤
内藤家の家紋は下り藤

そこで根拠となる内藤重頼の生涯を簡単に見てみることにしました。重頼は大名の子として生まれましたが、幼少で相続したために領地が減らされ一時旗本になりました。

江戸時代のまま残った重要文化財の大坂城大手門 内藤重頼もこの門をくぐった可能性が高い
江戸時代のまま残った重要文化財の大坂城大手門 内藤重頼もこの門をくぐった可能性が高い

とはいえ幕府内では活躍し、徳川綱吉の長男、徳松の傅役(もりやく=お世話・教育係)をはじめ、若年寄や京都所司代になるなど確実に出世して大名に復帰します。

1685年に重頼は大阪城代となります。大阪城代は将軍直属の役職で、将軍に変わり大坂城を預かる重要な役目。その際に慣例として大坂城代に任命されると、大坂城の近くにある摂津や和泉、河内国から領地をもらうようになっていたようです。

画像は、富田林市の文化財保護課よりいただいた資料「寛政重修諸家譜」の一部。ここに内藤重頼が、大坂城代だったころにもらった所領が書かれております。これを見ると摂津国有馬川、嶋上、河内国渋川、丹北、若江六郡の合計2万石を拝領したとか。

では、河内国の郡は今どこのあたりかを見ると次の通りです。

  • 渋川郡(大阪市生野区、平野区、八尾市、東大阪市の一部)
  • 丹北郡(松原市の大部分と大阪市東住吉区、平野区、八尾市、羽曳野市、藤井寺市の一部)
  • 若江郡(八尾市、東大阪市の一部)

これを見る限り、現在の富田林市内は含まれておらず、少なくとも大坂城代内藤重頼が富田林藩を立藩したとはとても言えない事実がわかりました。

JR久宝寺駅
JR久宝寺駅

では、なぜ富田林に所領があったような記述があったのでしょうか?実はここにひとつの可能性があります。それは重頼がこのときにもらった河内国の所領の中に、ある村が入っていたからです。それは渋川郡久宝寺村。

この久宝寺村のあたりでは、中世のころに石山本願寺の蓮如(れんにょ)が布教活動を頻繁に行ったとかで、その影響で久宝寺御坊こと顕証寺(けんしょうじ)が作られ、その寺を中心に、村人たちにより久宝寺寺内町が形成されました。

参考:富田林以外の寺内町の一例として今井町
参考:富田林以外の寺内町の一例として今井町

つまり久宝寺の寺内町のあたりを重頼が所領としてもらったのに、寺内町だけが独り歩きして富田林の寺内町周辺を所領にしたと勘違いした人が、富田林藩を作ったと思い込んだのが真相ではないでしょうか?あくまで推測ですが、そのように考えるとすっきりします。

ちなみに寺内町は富田林をはじめ久宝寺や奈良県にある今井町など、主なものだけでも畿内を中心に30以上あります。実際にはもっと多くの寺内町があったのでしょう。

但し注意したいのは、江戸時代に富田林藩が無かったというだけで、富田林が自治都市だったというわけではなく、幕府領(天領又は幕領)や一部の藩、旗本の領地です。

その中でも寺内町は幕府領で、在郷町(ざいごうまち)として、南河内地域の商業の中心地として発展。幕末には有力町人衆が事実上の自治をしてたそうです。

「河内長野や千早にいる楠木正成は、殿様とか大将みたいですね」とは、ある富田林寺内町内にあるお店の方の言葉。富田林には正成のような大将も藩もなければ、統治する殿様(大名)もいなかった。寺内町を歩けば確かにそんな気がします。

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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