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【富田林市】幕末から明治初期に作られた富田林甲田の浅川堤とは?錦織神社の名称変更につながったとも。

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

富田林寺内町から南側に当たる甲田地区。ここの地区の石川の西側には、田んぼや畑が広がっています。実はこの田や畑を川の氾濫から守っているのが、浅川堤(あさかわつつみ)と呼ばれるものです。

この堤は、例えば有名な武田信玄が作ったと言われる信玄堤のように、地域の支配者(武家)によって作られたものではありません。浅川八郎という村の庄屋だった人が、私財を投じて、幕末から明治にかけて作られた堤防なんです。

浅川堤が作られた範囲は、谷川町から甲田の南端までの範囲。江戸時代のころは幕府領(天領)だった甲田村があるところです。

村では、石川の沿岸に作られた流作場(りゅうさくば)と呼ばれるところで開墾が行われていました。しかしここは水害を最も受けやすい場所で、石川が氾濫するたびに被害を起こしました。

江戸の元禄年間に、甲田村の有力者で庄屋を勤めていた水郡(にごり)家によって堤防が築かれ、「内堤」という名前で現在も20間(36.4メートル)ほどが残っているそうです。

それでも石川の氾濫が激しいときには流作場の被害が激しいので、いつしか放置されてしまったとか。

水郡家と言えば、幕末に起こった天誅組の変にて、天誅組河内勢の首魁(しゅかい:中心人物)であった、水郡善之祐(にごりぜんのすけ)の活躍が知られていますね。

東高野街道から石川方面を見る。真ん中あたりの盛り上がったあたりが浅川堤
東高野街道から石川方面を見る。真ん中あたりの盛り上がったあたりが浅川堤

やがて幕末の慶応年間になると、この地域の庄屋だった浅川八郎は、石川の氾濫をどうにか抑えて作物の生産高を上げようと、私財を投入して堤を作ることにしました。それが浅川堤です。

堤の部分をわかりやすく拡大しました。浅川堤は村人たちの協力を得て、1866年から10年かけて堤を完成させました。長さは686間半(約1250メートル)あるそうです。堤が完成してからは石川の影響を受けることなく、安定した耕作が可能になりました。

また記録によれば、堤を作ることは浅川八郎自身が思いついたのではなく、八郎の祖父にあたる八左衛門というひとが、開田の絵図面を役所に提出していたとか。八左衛門の意志を八郎が継いで実現したそうです。

錦織神社の正面入り口すぐのところに、浅川八郎の功績をたたえた記念碑があります。

こちらが浅川堤を作った浅川八郎を称える記念碑。1902(明治35)年に建造されたそうです。

ところが、この記念碑の建造をめぐっては浅川家と水郡家との間で争論が生じてしまいました。

争論の詳しい理由の情報はありませんが、浅川堤ができたことで可能になった耕作地(13町7畝8歩=39,218坪)のうち、水郡家が過去に開墾したという5町半(16,500坪)は、水郡家に戻すようなやり取りがあったようなので、それに起因する何かかもしれません。

ただその結果の大きな影響として、それまで水郡家が神主も兼ねていた水郡神社の名前を錦織神社と改称される一因になったとか。土地や記念碑と、名誉的なことで揉め事が起きるのは今も昔も変わりませんね。

どうしても錦織神社の方に目がいきますから、ついつい見落としがちな記念碑。しかし、平成14年には浅川八郎の子孫である同族会の方たちが、この歴史をわかりやすい掲示板として設置しています。

浅川堤記念碑
住所:大阪府富田林市新家
アクセス:近鉄川西駅から徒歩5分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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