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【富田林市】富田林駅と喜志駅の間にあったという幻の旭ヶ岡駅とは?その場所はどこなの?

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

近鉄長野線で、古市駅から喜志駅を経て富田林駅に向かう途中は、イメージとして電車が速度を上げている気がします。

これは古市方面から富田林駅までが複線というのがそう感じる最大の理由ですが、それだけではなく、古市駅と喜志駅の間と、喜志駅と富田林駅までの距離が長いこともあるかもしれません。

歴史を紐解くと、かつてこの間に駅が存在していたという事実がわかりました。喜志駅と古市駅との間には西浦駅が、逆方向の喜志駅と富田林駅との間に旭ヶ岡(あさひがおか)駅と言うものがかつて存在していたのです。だから駅の間が長かったのですね。

西浦駅は現在の羽曳野市内にあったので、ここでは富田林市内にかつて存在した旭ヶ岡駅について見ていきたいと思います。

喜志駅と富田林駅の間に存在したという旭ヶ岡駅の歴史を紐解くと次の通りです。

  • 1923(大正12)年12月28日 当時の大阪鉄道が旭ヶ岡駅を北田辺駅と共に開業
  • 1945(昭和20)年6月1日 旭ヶ岡・河堀口(こぼれぐち)・応神御陵前・誉田八幡(こんだはちまん)・橿原神宮西口・富田林西口駅が営業休止
  • 1946(昭和21)年7月1日 富田林駅西口駅が営業再開 ※そのほか河堀口駅と橿原神宮西口駅も順次再開
  • 1974(昭和49)年7月1日 旭ヶ岡駅が応神御陵前・誉田八幡・屯鶴峰(どんづるぼう)臨時駅と共に正式に廃止

戦時中に休止となり、そのまま再開されることなく1974(昭和49)年に廃止となった旭ヶ岡駅。このようにたった22年しか存在しなかった旭ヶ岡駅ですが、厳密にいうと、1911(明治44)年から1920(大正9)年までの9年間には、近くに宮ノ前停留所(駅)がありました。

それを移設したうえでの旭ヶ岡駅誕生なので、実質的には30年近く存在しています。

ではいったい旭ヶ岡駅はどのあたりにあったのでしょうか?富田林駅から喜志駅まで大阪外環状線(国道170号線バイパス)沿いを歩きながら探してみることにしました。

事前にいろいろ調べると、手掛かりになる情報や写真が複数ありました。4年位前に撮影されたものによれば、駅があったと思われる場所には踏切がありました。ここにも踏切がありますが、こんな細い道ではありません。

しばらく歩くと、南旭ヶ丘と書かれた交差点を発見しました。「丘」の字が「岡」とは違いますが、なんとなく関係ありそう。踏切に通じる道もあります。近くまで行ってみました。

さて踏切の前まで来ました。

ちょうどタイミングよく電車が通過していきました。確かに踏切がある場所。ここが本当に旭ヶ岡駅があったところなのでしょうか?

近くで少し休憩して調べてみました。するとどうやら違うようです。いくつかのキーワードがあり、ここではないことがわかりました。そのキーワードは次の通り。

  1. 踏切のところに白い鉄筋の大きな建物がある。
  2. 旭ヶ岡駅は旧喜志村だったところに存在した。
  3. 喜志駅との距離は約600メートルで、富田林駅までは約1700メートル。
  4. 旭ヶ岡駅は前身の宮前停留所とともに美具久留御魂神社への参拝客の利用目的が多い。
  5. 富田林市民会館の近くという口コミ。

また地図でザクっと確認したところ、南旭ヶ丘駅交差点は喜志駅と富田林駅のちょうど中間くらいのところにあったので、3の説明から外れていますね。

さらに1と5の状況から富田林市民会館(レインボーホール)の近くに駅があったことがわかりました。

旧喜志村の範囲
旧喜志村の範囲

こちらの地図で赤で囲ったのは旧喜志村の範囲です。先ほどのところはこの範囲より南側なので、2の説明ともずれます。

レインボーホールの近くでかつ4の根拠である美具久留御魂神社の参拝客が利用したということから、レインボーホールの北側の道にある踏切のところとほぼ特定できました。近くのお店と喜志駅を測ってみると600メートル前後であることも確認。

これは以前撮影した写真です。粟ヶ池(あわがいけ)からちょうど列車が通過しているシーンですが、右側には富田林市民会館(レインボーホール)があります。

つまりこの画像のあたりのどこかに旭ヶ岡駅があって、車両や車両編成などは当時と違うと思いますが、こういう風に駅に止まったのではと想像しました。

さて調査を再開しましょう。途中で休憩して調べたのですっかり日が暮れてしまいました。駅の目の前の交差点の名前は宮前。旭ヶ岡駅の前身宮前停留所とも一致しますね。

これも別の日に撮影したものですが、宮前交差点の先に美具久留御魂神社(みぐくるみたま)神社があります。

さて、鉄道のある方向に行きましょう。4年前の写真には存在しなかった高架があります。

これは渋滞緩和を目的として作られた美原太子線粟ヶ池バイパスを走る車を、踏切によってスムーズな通行の邪魔にならないように、その場所を高架化して踏切を廃止にしようというものだとか。

さらに調べると今の線路は仮線で、高架の方が本来の線路の部分らしく、高架工事が完了すれば、本来の線路(高架の上)に電車が走るようになります。

ということでこれ以上は中に入れないようなのですが、恐らくこの辺りのどこかに旭ヶ岡駅がかつて存在したのかなと想像します。

余談ですが、旭ヶ岡駅が存在したころはまだ単線だったとか。富田林駅までが複線になったのは駅が正式に廃止になってから13年後の1987(昭和62)年の10月です。

踏切から喜志駅方向を見ると、遠くが光って見えました。恐らく600メートルほど先にある喜志駅だと思われます。

高架工事が終わってこのあたりが高架線になれば踏切もなくなり、さらに旭ヶ岡駅の足跡はわからなくなりそうです。それは時代の流れなので、仕方がないことかもしれません。

旭ヶ岡駅跡
住所:大阪府富田林市宮町又は粟ヶ池町
アクセス:近鉄喜志駅から徒歩10分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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