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【富田林市】桜井町の町名由来となった喜志桜井の井戸。誕生には時代の異なるふたりの偉人からの伝承?

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

富田林市桜井町は、近鉄喜志駅から粟が池の途中にある町です。ここには町名のきっかけになった喜志桜井の井戸が現存しているということで、どんな感じか見てきました。

桜井町と喜志桜井の井戸の位置関係を見るとこんな感じです。

先ほどの地図を拡大してみました。

さて、こちらが桜井の交差点です。

ここからは美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)の参道です。宮前に向かう道があり、途中には別宮・龍神社があります。

東高野街道沿いでもあり、この辺りは非常に歴史を感じる場所ですね。

その高野街道の横に、路地があります。中央にある緑色の建物を目印に、その路地に入ると、喜志桜井の井戸があります。

フェンスで囲まれた一角が、桜井の井戸です。ところで、この井戸誕生には時代の異なる歴史上の偉人がふたりかかわっていることを知りました。

それは飛鳥時代の聖徳太子と平安時代の空海です。

ここに説明がありますが、ふたつの由来は次の通り。

  • 地域の伝承 → 聖徳太子が馬上で鞭を振って地面を叩いたら、清水が湧いた
  • 大阪府全志 → 空海の祈願によるもの

さらに聖徳太子説では、馬に「ちやくらへ(茶食らえ)」といって、それが転じて桜井になったというのです。

太子町の叡福寺にある聖徳太子御廟
太子町の叡福寺にある聖徳太子御廟

両方の説があるので、どちらかが正しいのでしょうけれど、あくまでも個人的な感想ですが、聖徳太子説の方が好きです。その理由としてすぐ近くに太子町があり、そこに聖徳太子の御廟があるのと、やはり住んでいる人の伝承という点です。

とはいえ、考え方によれば聖徳太子の伝承を知っていた空海が改めてここにきて、井戸に対して祈願したのかもしれません。実際に歴史書では「桜井の弘法井戸」と呼ばれている記述が多いです。

河南町の高貴寺、寺に向かう坂道沿いに小さな井戸があり、それが岸の桜井とも
河南町の高貴寺、寺に向かう坂道沿いに小さな井戸があり、それが岸の桜井とも

ところが聖徳太子説には次のようなものがあり、河南町にある高貴寺の途中にある小さな井戸こそが、聖徳太子が掘った「岸の井戸」で、喜志と岸が混乱して富田林桜井に伝わったのではとも言われています。

岸桜井 平石村にあり。伝云、むかし、聖徳太子、桜の盛なる頃、枝を手折て鞭とし、これをもつて堀給へば、清泉、滔々として涌出しけるよしを、近年、高貴寺の慈雲比丘、書して標石を建る。

(引用:河内名所図会)

以上のようにいろんな説がありますが、実際にこの井戸の水は「水が冷たくて、甘味なのでお茶に適していた」だったとのこと。遠方からもわざわざ水を汲みに来ていたそうです。

ただ、今の様子を見て見ると、水が枯れたのでしょうか?もうほとんど水が無いように見えます。

しかしいつしかこの井戸の存在が人々から忘れ去られ、水田脇にひっそりととなっていました。それを改めて整備したそうです。

井戸のすぐ目の前には田園地帯が広がっていました。桜井町は古墳時代の桜井屯倉の伝承や飛鳥時代の集落跡が発見されており、また新堂廃寺との関係も指摘されています。

いずれにしても、地図を片手に町歩きをしながら歴史のスポットを探すのはなかなか面白いです。時間があればぜひ訪れてみてください。

喜志桜井の井戸(桜井の弘法井戸)
住所:大阪府富田林市桜井町2丁目1587-12
アクセス:近鉄喜志駅から徒歩9分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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