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【富田林市】石川に架かる河南橋は、河南町と離れているのになぜこの名前になっているの?理由を探ってみた

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

富田林市内を南北に流れる石川にはいくつもの橋が架かっていますが、もっとも北(下流)にあるのが河南橋です。

河南橋から喜志大橋を見る
河南橋から喜志大橋を見る

河南橋はそうとう古い橋で、富田林市と太子町を結ぶ橋であることは確かですが、ここで疑問が湧きました。なぜ橋の名前が「河南橋」なのかです。

普通に考えると富田林市から太子町に向かう橋なので「太子橋」ならわかるのですが、なんとも不思議ですね。調べてみました。

河南橋の位置関係をおさらいしましょう。富田林の喜志駅から続いている道が、石川の上で太子町方面に架けられているのがわかります。太子町の四辻を越えてさらに東に向かえば、聖徳太子廟があることで有名な叡福寺があります。

その南側の喜志大橋は、この河南橋を東西に結ぶ道のバイパスのような位置づけで、すぐ南側にかけられていますね。

地図で確認すると、河南橋の東側は太子町に続いており、河南町は確かに近いですが、かすりもしません。

ここで、もしかしたら河南橋の東側に元河南町だったところがあって、富田林市に吸収されたのかと思いました。しかし、調べてみるとそのようなことはなく、石川の対岸も旧喜志村でした。

歴史を確認すると、旧喜志村の消滅は、1942年(昭和17)年4月1日。当時の 富田林町・新堂村・大伴村・川西村・錦郡村・彼方村と合併し、改めて富田林町が発足したことによるものです。

その一方で河南町は、1956(昭和31)年9月30日に当時の石川村・白木村・河内村・中村が合併して発足しているので、少なくとも河南橋の東側が河南町ではありませんでした。

ここで西暦1900年ごろ、明治時代の古地図を見つけました。左上に喜志村(当時は横文字の表記順が逆)と書いているのがわかりますし、河南橋もすでに架けられているのがわかります。※但し現在の河南橋は1973(昭和48)年5月に架け替えられたものです。

つまり河南町が成立する半世紀以上も前から河南橋が存在したことになりますが、ではいったいなぜこのような名前がついているのでしょう。

いろいろ調べましたが、まったく情報がなくわかりません。そもそもいつごろ架けられた橋なのかも不明。1900年頃の古地図で出て来るくらいですから、相当古いのだけはわかります。

なお富田林市内には河南高校がありますが、この学校が「河南」表記を初めて使ったのが1921(大正10)年の大阪府立河南高等女学校なので、少なくとも河南橋の名前が学校からとられた可能性はないと考えられます。

そこで富田林市に問い合わせしたところ、河南橋を所管している大阪府富田林土木事務所の道路整備グループに問い合わせていただき、回答をいただきました。以下引用します。

図面(例:道路幅員)等は残っているが、橋の名前の由来まではわからないとのことです。古参の職員に聞くなど、いろいろと当たってみていただいたようです。古い資料が残っている倉庫などはまだ探せていないが、かなりの時間がかかること、また徒労に終わる可能性が高いとのことです。 

1900年の時点で載っている橋ですから、100年以上前のこと。もう名前の由来を残した記録もないのかもしれませんね。

何か他に手がないかと考えたときに、ふと思いつきました。同じ「河南」を名乗っている河南町に、町名の由来を聞いてみようということです。河南町は石川村・白木村・河内村・中村が合併してできましたが、河内村の「河」以外の文字は使われていません。

河南町役場
河南町役場

もしかしたら、そこに「河南」の意味について情報があるのではと、河南町に問い合わせてみました。すると次の回答を頂きました。

「町名を河南町と定めたわけは、南河内を象徴する金剛葛城を仰ぎ、その大部を境域におさめ、朝夕その秀麗の気にひたり、そのふところに抱かれている。」という記載にとどまっております。

これだけではよくわかりません。南河内を象徴とあるので、南河内をさかさまにして河南にしたのかというイメージですね。

ところが添付していただいた河南町誌の中にあった。「河南町の自然」という項目で気になるキーワードが見つかりました。

場所は河南町白木付近 河南台地を思わせる傾斜がありました
場所は河南町白木付近 河南台地を思わせる傾斜がありました

それは河南台地です。河南町の自然を紹介する項目には、大和葛城山などがある葛城山地その手前(西側)にあった3つの山塊「一のはげ山塊」「持尾山塊」「白木・中村山塊」で構成されているとあります。

場所は河南町大ヶ塚、台地の上に集落があったのがわかる坂
場所は河南町大ヶ塚、台地の上に集落があったのがわかる坂

その山の間を流れるいくつもの石川の支流により、河岸段丘(かがんだんきゅう)が形成され、そこに大ヶ塚、寺田、白木、中などの集落ができました。この河岸段丘が河南町の中心、河南台地を形成しているそうです。

反転しているのが行政区域としての河南町
反転しているのが行政区域としての河南町

古地図を見ると1900年当時、現在の富田林市から石川に架かっていた橋は河南橋のほか、富田林駅近くにある「上石川橋(現:金剛大橋)」と滝谷不動駅近くの高橋だけだったようです。

富田林の上石川橋からも河南町方面・河南台地に行けますが、すでに石川の名前が付いた橋になっている。そこでその下流にある喜志村から渡れる橋に河南台地の名前を付けたのではないかと推測できないことはないですね。

つまり河南橋とは、現在の行政区域としての河南町とつながっているのではなく、昔から自然に存在していた河南台地につながる橋という意味だったのではないでしょうか?

そして河南台地に点在していた河南町になる前の各集落と旧喜志村との往来ができるように架けられたのでこの名前になったのではないかと考えられます。

河南橋
住所:大阪府富田林市川面町1丁目
アクセス:近鉄喜志駅から金剛バス 河南橋バス停下車すぐ

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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