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【河内長野市】河内大仏の横にある三笑橋という石碑の由来を調べると、通天閣を命名した人物が関わっていた

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

日々、街歩きをしながら河内長野市内に点在する気になるスポットを探していますが、それを探しに行ったわけでもないのに、偶然に見つけてしまうことがよくあります。

今回ご紹介するのも、そうして偶然見つけたものです。河内長野駅からも見える河内大仏がありますね。大仏があるのは極楽寺ですが、そこに立ち寄ったときに見つけたスポットがありました。

東尾メックのイルミネーションの撮影をするために、夜に河内大仏の前に行ったときに、そのスポットを偶然に見つけました。

それがこちらです。極楽寺の入口にある石碑に三笑とあります。三笑?落語家の名前みたいなキーワードですが、これは一体なんでしょうか?

難しい字ですが、三笑の下に書いてあるのは橋と読むそうです。調べてみると裏にも表記があって「明治四十五年五月南岳識」と彫ってありました。

この「南岳識」を調べると、江戸時代の儒学者、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が提唱した学問の一派、徂来学派の儒者で、幕末から明治にかけて活躍した、藤沢南岳(本名:恒)の書なのだそうです。

通天閣
通天閣

この藤沢南岳は驚いたことに、天に通じる高い建物という意味で、通天閣を命名した人物です。そのほか小豆島にある寒霞渓(かんかけい)や大阪市内にある精華小学校・集英小学校、愛日小学校・桃園小学校などの学校名の命名者なのだそうです。

ではなぜ、通天閣などを命名するような有名な儒学者の書の石碑が、河内長野の極楽寺の前にあるのでしょうか?

まず「三笑」は、中国の「虎渓の三笑」の故事からちなんだものだそうで、極楽寺からの眺めが中国にある虎渓(こけい)に似ているからだったそうです。

これは昼間に撮影したものです。三笑橋から見える風景、今は南海電車の線路や河内長野駅周辺のビルが見えていますが、明治の頃には全く違った風景、遠くに山が見えて手前が谷のようになっているのがそのように見えたのでしょうね。

また藤沢南岳の娘(長女)さんが、健康回復のために極楽寺に滞留していた時期があります。極楽寺には江戸時代以前から温泉が湧き出ており、1936(明治39)年に極楽寺温泉が開業していました。

その際に、住職と南岳、そして健康が回復した娘さんの三人が笑って話しあえるるよう願いを込めて石碑を建てられたそうです。「虎渓の三笑」の故事と三人が笑うというのを掛け合わせたんですね。

三笑橋の横にはまた別の石碑が立っています
三笑橋の横にはまた別の石碑が立っています

なお1938(明治41)年には、お寺の中に温泉宿泊施設が開館しますが、その名前が「三笑館」です。

ちなみに極楽寺温泉には、南岳のほか小説家の渡辺霞亭(わたなべかてい)も訪れていて、文人の交流の場でもあったようです。

三笑館は大正初期のころには閉鎖されたそうですが、石碑だけは今でも極楽寺の前に残っています。こうした石碑の意味を調べると、知られざる歴史が見えて楽しいですね。

三笑橋の石碑
住所:大阪府河内長野市古野町12
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩8分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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