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【富田林市】天誅組決起160年慰霊祭が錦織神社境内顕彰碑で開催。幕末の南河内で活躍した若者たちとは

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

富田林地域を含む南河内地域で、歴史上のエピソードと言えばどうしても南北朝時代の楠木正成の名前が出てきますね。

しかし、楠木正成以外にも、この地域は全国的な歴史の表舞台に何度も登場したことがあります。今回取り上げる幕末に活躍した天誅(忠)組(てんちゅうぐみ)もそのひとつです。

富田林の郷土・歴史の研究をされている喜志の尻谷廣海さんから、天誅組決起の慰霊が行なわれるとの話を伺いました。私は天誅組についてはずっと気になっていましたので、先日錦織神社の境内にある天誅組顕彰碑での慰霊祭に行ってきました。

1863(文久3)年8月13日に孝明天皇が奈良県橿原市にある神武天皇陵を参拝(大和行幸:やまとぎょうこう)することが決まり、攘夷親征(じょういしんせい:過激派の策略による天皇の出陣)の詔(みことのり:天皇の命令)が発せられます。

これに応じて動いたのが天誅組です。

天誅組について、その説明をする前に、まず攘夷親征の詔が発せられた背景を確認する必要があります。きっかけは1853(寛永6)年に起こった黒船来航。200年以上鎖国を続けていた江戸時代が大きな転換期を迎え、外圧により開国したのです。

京都御所:幕末の政治の舞台は江戸から京都に移った
京都御所:幕末の政治の舞台は江戸から京都に移った

その後、幕府大老の井伊直弼が朝廷の許可(勅許)なく諸外国と条約調印。井伊直弼が許可なく条約を結んだことに反発する勢力を、強権的に処分(安政の大獄)を行いますが、その直弼も桜田門外で殺害され、幕府の威信が低下しました。

そんな中、攘夷(じょうい)と称する外国勢力を排除、鎖国を復帰させようとする勢力が出てきました。幕府の権威失墜により、長州や薩摩などの力を持っている藩が独自に動き出し、あろうことか、薩英戦争など、外国船と勝手に紛争を起こすようなことも起こります。

錦織神社の近くにある水郡(にごり)邸
錦織神社の近くにある水郡(にごり)邸

そして、長州藩は朝廷を利用しての攘夷親征を企て、京都に兵を向かわせ天皇に大和行幸の詔を出させました。

それにいち早く応じたのが天誅組です、8月14日の夜に土佐藩を脱藩した吉村寅太郎攘夷派の浪士、約40名が、攘夷派公卿の前侍従、中山忠光を主将に迎えて決起します。

一行は大和行幸の先鋒として京都から大阪、堺を経由して南河内に入ると、富田林の水郡邸に向かい、それに水郡善之祐(にごりぜんのすけ)ら河内勢13名が合流します。

三日市町高野街道沿いにある油屋の跡地
三日市町高野街道沿いにある油屋の跡地

水郡邸から出発した天誅組は、河内長野三日市町の旅館、油屋で休息したのち、観心寺境内に隣接する後村上天皇陵を参拝、楠木正成の首塚の前で決起します。

そのまま千早峠を越えると、天領(幕府の領地)の五條(現在の五條市)に入り、17日に幕府代官の鈴木正信(源内)を殺害し、五条御政府を立ち上げます。

五條にある天誅組の資料館
五條にある天誅組の資料館

ところが、翌18日に京都で政変が起こり、長州勢が京都から撤退したことにより、先走った状況になった天誅組は、幕府を攻撃した賊軍(幕府の敵)となってしまいます。

幕府からの追討軍の攻撃を受けながら紀伊半島の山中を彷徨いましたが、9月末ごろには組織が解体してしまいました。

天誅組の決起は失敗に終わりましたが、以降は体制を立て直して再び京を目指した長州勢や、土佐の坂本龍馬の仲介により、長州と同盟を結んだ薩摩勢などの動きにより、一気に倒幕にむかって時代が動き出しました。

そのため天誅組の決起は、明治維新の先駆けと言われています。

そんな天誅組の顕彰碑が錦織神社の境内にあるのは、天誅組の河内勢の中心人物だった水郡善之祐の邸宅が近いだけでなく、当時は水郡神社と呼ばれていた錦織神社の神主を善之祐が担当していたことも関係しています。

では、拝殿までの参道が長い錦織神社のどのあたりに顕彰碑があるのでしょうか。

鳥居を過ぎてすぐの境内案内図を見ると、そのすぐ近くに天誅組記念碑(顕彰碑)があることがわかります。

という事で、顕彰碑の前に到着しました。この日は祭壇にお供え物があります。

尻谷さんのほか、藤井寺から天誅(忠)組記念館・伴林光平(ともばやし みつひら:天誅組の記録係を務めた幕末の国学者)先生顕彰館館長の草村克彦氏の姿もありました。

尻谷さんの呼びかけにより、今回の慰霊祭が実施されることになりました。

天誅組河内勢顕彰碑と書いてあります。こちらに刻まれているのは詩歌ですが、次のように書かれているそうです。

花と咲き 花と散りにし人々の 若き命を誰が惜しまざる

石碑の後を見ると、1963(昭和38)年11月3日に天誅組の百年祭を記念して建てられたもの。当時の大阪府知事や顕彰会長の名が刻まれています。

右側にある石碑の銘文です。全文を引用します。天誅組の動向とその事象から100年経過し、顕彰することが書かれていました。

文久三年八月十七日 天誅組河内勢六十余人は、中山忠光卿を盟主と皇軍の先鋒として甲田水郡邸を出発し 同日長野三日市を経て観心寺の後村上天皇陵を拝し大楠公首塚の前で結盟を誓い 千早峠を越えて大和に入り 五条代官を屠りてその所領 天朝直轄の御地御民と宣言し 討幕の第一声を挙げた 然るに翌十八日に突如として京師に政変起り 廟議一変し却て迋徒として追討せられることとなる 然れども少しも之に屈せず 至誠の必す天朝に達することもあるべきを確信し 兵を十津川郷に募り 吉野の山野を血汐にそめて孤軍奮闘し、遂に刀折れ矢尽きて 僅か四十日にして九月二十四日 或は鷲家口に戦死し 或は紀州竜神に捕らえられて 翌元治元年七月二十日京都に於て斬首された 実に明治維新の魁として花と咲き花と散った人々である爾来百年の星霜を経た今日 我国未曽有の繁栄の礎を築いた天誅組河内勢の遺勲は永久に忘れてはならない 頃日河内精神を提唱してその郷風を振作せんとする我等同人先賢の事蹟を顕彰し 茲に建碑したる所以を誌す
昭和三十八年十一月三日   水郡庸皓撰 伏井岩太郎書

裏を見ると、顕彰碑を建てるために寄付をした方と世話人の名前が刻まれています。

顕彰碑の左側にある石碑には天誅組河内勢の志士の名前が刻まれています。甲田村の水郡善之祐以下、富田林村、長野村、新家村など、志士が所属していた当時の村名と名前が刻まれています。

裏側には大口の賛助者の名前が刻まれています。草村さんによれば、当時はまだ戦前戦中に生まれた方も多く、天誅組への関心も高くて賛同者が多かったそうです。

河南町にある長野一郎の墓
河南町にある長野一郎の墓

そしてこの中には、以前河南町で墓を拝見した旧大ヶ塚村の長野一郎の名前もありました。

今回の慰霊を執り行うきっかけは、160年と言うタイミングもさることながら、天誅組のことが今は半ば忘れ去られているような気すらすると危惧を抱いたからとのこと。

また本当は「天誅組」ではなく本来は「天忠組」だったと草村さんが言われていました。

五條の酒蔵さんが醸造したお酒にも「天忠組」と明記されています。
五條の酒蔵さんが醸造したお酒にも「天忠組」と明記されています。

尻谷さんは「もっと郷土の歴史の人物を知ってほしい」と話されていました。幕末の出来事だから、上手く行けばドラマや映画にもなりそうな気がします。そうなればもっと盛り上がるでしょう。

調べれば15才未満のために、処刑されなかった善之祐の子、水郡英太郎など、天誅組の中にもわずかに生き残って明治維新を迎えた方もいるようで、そういう人を主人公にすれば、明治維新を交えた物語などができそうな気がしました。

錦織神社境内にある天誅組の顕彰碑
住所:大阪府富田林市宮甲田町7-2 錦織神社内
アクセス:川西駅から徒歩6分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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