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【河内長野市】楠木正成築城伝説があり、信長、秀吉、家康と、有名武将が重要視し続けた烏帽子形城跡は今。

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

城跡と言えば、大坂城や姫路城など天守閣があって、そこから展望できるような建物の印象があります。しかし、それはどちらかとえ言えば安土城より後からできた近世の城で、それ以前にあった中世の城はそんな立派な天守閣があったわけではありません。

8月11日から13日まで大阪市内にあるグランフロント大阪の北館地下2階でお城フェス2023(外部リンク)が開催されました。全国にあるお城が紹介されていますが、その中に、河内長野の城も紹介されていました。 
 

説明によると、河内長野市内には伝承を含めると20以上の城があったことがわかっており、その中でも烏帽子形山の頂上に建てられた烏帽子形城は国指定の史跡で日本遺産に指定されているもの。畠山氏や羽柴秀吉らの城としても利用されているとあります。

もちろん烏帽子形城のことは知っていましたが、昔一度だけ山頂に上った以外は普段は高野街道を素通りしていることが多かったので、これを機会に烏帽子形山を登って城跡を確認してみることにしました。

東側に鎮座する烏帽子形八幡神社には行く機会が多いので、今回は八幡神社を無視するような形で、南側から直接烏帽子形城跡に行ってみることにしました。

烏帽子形公園の入り口です。

烏帽子形公園の南側の入り口には、14台停められる駐車場があります。

公園の中には城跡のほか、子どもが遊べるわんぱく広場がありました。

城跡のほうに向かって歩いていきましょう。午前中ですが、この日は日差しがとても強くて暑かったです。

芝生になっているので、春や秋の頃にはシートを敷いてピクニックをするのには最適ですね。

こちらがわんぱく広場の遊具です。

いよいよ城跡への入り口です。森の中に入ってみましょう。森の中に入ると日陰になり、ときおり風が吹くので、途端に暑さを感じなくなって心地よい散歩ができました。

さて、烏帽子形城をおさらいすると、元々は南北朝時代の武将・楠木正成が築城したとされる楠木七城のひとつとされていますが、その前の時代、源平合戦の時代に活躍した源行家の長野城という説もあります。

少なくとも烏帽子形山は、昔から城を築くのに適したところなのがわかります。

また一説には楠木氏が築城したというのも伝承に過ぎないと言う説があります。

その場合、確実に城として機能したのは戦国時代との情報です。こちらに展示してある烏帽子形城の歴史も、最初に記載があるのは戦国時代が始まるころからです。

戦国時代以降になると、当時河内の国を支配していた畠山氏同士が後継者争いで城を巡って戦いが行われ、さらに四国から畿内に出て勢力を伸ばした三好長慶(みよしながよし)との間でも、城を巡って戦いが行われました。

紀州にあった根来寺の勢力が和泉山脈を越えて攻めてきたという説もあり、城を守っていた城主もころころ変わるほど激しい戦いが繰り広げられた場所だったようです。

やがて織田信長が進出してきて、信長が畿内を支配すると、河内にある多くの城は不要だとして壊されますが、烏帽子形城はまだ信長に従わない紀州の勢力や高野山へ対策のためにと残されます。

信長の死後に羽柴秀吉がこの地を支配します。しかし、大坂城の築城をはじめていた頃は紀州の勢力が従っていなかったことや、東海地方にいた徳川家康と対立していることで、不安定な立場でした。

そこで秀吉が烏帽子形城を重視し、配下の岸和田城主中村一氏(なかむらかずうじ)に命じて城をさらに強固なものに作り替えたとの記録が残っています。

秀吉は家康と小牧・長久手の戦いを行ないますが、この最中に紀州勢が大坂に攻め込み、さらに、河内にある国見山城に家康側の武将が陣取ったために、修復した烏帽子形城から中村一氏が戦いを行なったとされます。

紀州が秀吉のものになると烏帽子形城の役目が終わります。江戸時代になってから楠木氏の子孫を名乗った甲斐荘氏が徳川幕府から領地と烏帽子形城をもらい受けたという記録がありますが、結局城は不要となり、そのまま廃城となったそうです。

また、宣教師ルイス・フロイスが執筆した日本史によれば、烏帽子形城を守り、支配していた武将の中にキリシタンの伊地知文太夫(いちじぶんだゆう)がいたという記録があります。

歴史の話はこれまでとして、山頂に向けて山の中を歩いていきます。道中はそれほど急な坂道ではなく、山登りと言うよりも散歩の感覚で歩けます。かつこのように道標がしっかりしているので、道に迷うことはありません。

ところどころに見える下り道は、山の下にある高野街道に抜けられるそうです。ここはかなり急な坂道なので、歩くのに馴れている人向けのような気がしました。

ここで道が二手に分かれます。左側に行けば曲輪(くるわ)、つまり頂上にある城跡に行けますが、右側にある堀内障壁(ほりないしょうへき)が気になったので先にそちらに行きました。

歩いていくと、説明版がありました。

説明版によると、烏帽子形城跡は山頂の曲輪を護るために8メートルくらい人工的に掘って、敵が攻めにくく作られているそうです。

この場所は、2メートルの垂直の段差(堀内障壁)を設けて、敵を堀の中で立ち往生させている隙に曲輪と反対側の土塁の上から攻撃をするというもののようです。

説明版を見た後だからかもしれませんが、確かに自然にできた谷にしては急すぎる斜面に見えます。秀吉に命じられて城の補強をした中村一氏が、家康側の武将と戦うために必死で掘ったのかもしれません。

さて、曲輪のほうに行きましょう。この上のほうに曲輪と呼ばれている城跡があるはずです。

現役の城としてなら容易に上がれないようになっていたであろう曲輪への道も、平和な現在では階段が設置されていて簡単に上がれます。

階段が終わり少しだけ急になった山道を歩いていくと、

画像右上に説明版のようなものが見えますが、あそこが頂上です。あと一息。

頂上付近は開けており、城跡のものがいろいろとありそうで楽しみです。

最後の階段を上ると頂上です。

上っていきましょう。上のほうは開かれていて光が差し込んでいます。

こうして頂上に到着します。

無事に到着しました。入口からゆっくり歩いて、少し寄り道しても20分もかからずに上がれました。

頂上付近は長細くなっていますが、烏帽子形山頂は頂上からの眺めが絶景です。

こちらが烏帽子形山山頂からの景色です。市役所の建物やヤマダデンキなどが入っているじゃんぼスクエアが一望できますね。

頂上から見える建物などの紹介です。烏帽子形山は標高約182mなので、河内長野の山としては低いほうですが、独立した山なので景色はとてもよいです。これなら敵が攻めてきても遠くから見ることができたわけですね。

こちらには碑と供養塔があります。石碑に書かれているのは、天之常立神(あめのとこたちのかみ)という天地が開けたときに登場する神様のようですが、なぜ烏帽子形山山頂にあるかという理由はわかりません。

石碑と供養塔の手前にあるのが、城の跡です。

城跡の礎石(そせき:柱を支える石)の跡が見えます。

礎石に関する説明があります。復元した建物の想像図もあってわかりやすいですね。近世の城なら立派な天守閣が建っているのでしょうけれど、中世の頃から活躍した烏帽子形城は、そんなに立派な建物ではなかったようです。

こちらは城跡をイラストで復元したものです。やはり山頂付近の曲輪は長細いですね。

縦長になっている曲輪(城跡)の先を歩いてみましょう。

こちらにもうひとつの建物の跡がありました。

こちらも礎石のようなものが見えます。少なくとも山頂にはふたつの建物が建っていたようです。

山頂からの帰りです。このほかにも城に攻めてくる敵を攻撃するために作られた土塁の跡が残っています。

烏帽子形城跡でいいなと思ったのは、こちらの道標や説明版です。専門家ならいざ知れず、素人が見たときに、確かに山の傾斜に違和感があってもそれが何を意味しているのかはわかりません。それが説明版のおかげでわかり、状況が想像できました。

これを設置した、あるいは設置するように指示をした教育委員会や文化財課の方がよくやってくれたと思いました。

改めて城跡のあたりの山の形を見ると、やはり不自然です。明らかに人の手が入った後のようなものが見え、それが現存しているというのはとても素晴らしいことですね。

ちょうど大河ドラマ「どうする家康」では、小牧・長久手の戦いのあたりになってきています。

さすがに烏帽子形城のことはドラマでは出てこないと思われますが、その時代に戦いの現場であったことは確かなので、歴史に思いをはせながら散歩してみてはいかがでしょう。

烏帽子形城跡
住所:大阪府河内長野市喜多町725-1
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩25分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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