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【富田林市】まもなく運行が終了する金剛バスの歴史は、なんと大正時代に!中野町の車庫も見てきました。

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

9月に金剛バスが運行終了するニュースを知って以来、地域の足として今後どうなるかということで、富田林と南河内郡の太子町、河南町、千早赤阪村の各自治体では頻繁にバスの代替え問題についてのニュースが流れました。

そして最後の姿を見ようと、多くのバスマニアが富田林に来ています。

12月となりいよいよ運行終了まであとわずかとなったので、金剛バス(金剛自動車)の歴史を調べてみました。金剛バスの公式ページ(外部リンク)によると、1925(大正14)年5月30日、金剛自動車乗合組合として一般乗合旅客運送事業の免許取得と書いてあります。

その後、1937(昭和12)年 6月9日に金剛自動車株式会社を設立し、初代社長に佐竹三吾が就任したとあります。

1925年の組合としての免許取得から1937年の会社設立までの12年間は、現在のところ情報がありません。しかし以前は記載があったようで、検索すると金剛自動車のページの中に1930(昭和5)年に太子口乗合自動車合資会社が設立されたという情報が出てきました。

全国乗合自動車総覧
全国乗合自動車総覧

1934(昭和9)年に当時の鉄道省が発行した全国乗合自動車総覧によれば、太子口乗合自動車合資会社は南河内郡磯長村270と 駒ヶ谷村飛鳥1108(0.2km)の間をバス運用していた記録があります。厳密には違うと思われますが、現在の金剛バスの路線に近いところを走っていますね。また1台のバスで運用していたようです。

全国乗合自動車総覧
全国乗合自動車総覧

バスが1台だけの運用とは驚きですが、全国乗合自動車総覧の大阪府の目次を見ると、会社のほか個人の名前もあり、当時は個人事業主が路線バスを運営していたことも普通にあったようです。

おそらく太子口自動車合資会社などの複数の小さな会社や事業主が金剛自動車乗合組合に属していて、1937年に合併して金剛自動車株式会社が設立されたようです。その後路線変更が何度か行われて現在の路線系統になったものと思われます。

全国乗合自動車総覧
全国乗合自動車総覧

余談ですが、当時の南河内郡長野町長野(現:河内長野市)には楠公自動車株式会社という会社があったようで、路線を見ると天野村や三日市、川上村の小深、鳩原など現在の南海バスで運用しているようなところを走っていたようです。

ということで、金剛バスは間もなく運用が終わるわけですが、富田林駅前には会社の本社がある建物がすぐ隣にあります。

しかし、金剛バスはここのほかにもバスの車庫があることを先日知りました。

場所は中野町です。とても気になったので金剛バスの車庫まで行って見ることにしました。

中野町の交差点です。旧国道170号線沿いを歩いています。

すると遠くに金剛バスの車両らしきものが見えてきました。

こちらが金剛バスの中野車庫です。この車庫が使われるのもあとわずかですね。

入り口からのぞいてみるとバスが数台停車しています。

この日は天気が良かったので背後の山もくっきりと見えました。

別の位置からもう一度車庫を覗きました。見た限り中野車庫はバスを置く場所はありますが、洗浄設備などは確認できませんでした。

というわけで金剛バス(金剛自動車)の歴史を振り返った後、中野町にある車庫を見てきました。車庫を見るというのはよほどのマニアか暇人しかしないかもしれませんが、バスはもうすぐ無くなりますので、今のあいだにバスには乗ってみてはいかがでしょう。

金剛自動車 中野車庫
住所:大阪府富田林市中野町1丁目645-8
アクセス:近鉄富田林駅から徒歩15分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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