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「歴史を善悪で判断しない」日本人研究者が続けるウクライナ難民支援の覚悟と慟哭

奥村盛人映画監督

終わりの見えないロシアによるウクライナ侵攻。ポーランドやスロバキアなどウクライナと国境を接する東欧諸国には、命がけで母国を後にした難民たちが押し寄せている。そうした国の一つ、ハンガリーの首都ブダペストで、難民支援のボランティアに取り組む日本人がいる。ロシアの研究機関でソ連や東欧の歴史を研究する木村香織(41)だ。文豪トルストイに導かれてモスクワへ渡った彼女は今、ハンガリーで研究活動を続けている。愛するロシアによる「予想外」の侵攻に深く心を痛めながらも、ロシア語を駆使して難民のために奔走する木村。密着を通して、戦争に翻弄される研究者たちの姿が見えてきた。

【こたつで聞いた「ソ連崩壊」】
木村が最初にロシアを意識したのは小学生時代。コタツでのんびりテレビを見ていた時だった。「ソビエト連邦が崩壊しました」というニュースを読み上げるアナウンサーのうわずった声を聞き、「ソビエト」という言葉が頭から離れなくなった。高校生になると、偶然手に取ったトルストイの小説が描くロシアの雰囲気と鮮烈な描写に魅了され、「原文で読んでみたい」とロシア語にのめり込むことに。その後、法政大学へ進んだ木村は交換留学生としてモスクワの地を踏む。留学中、ハンガリーを旅した木村は思わぬ言葉を耳にした。「ハンガリーの各家庭にはロシア軍に対する嫌な記憶がある」。ソビエト崩壊時のように、この言葉も脳裏に焼き付いて離れなかった。「好意を持つ人を批判された感覚に近かった」と振り返る木村は、1956年に起きたハンガリー動乱について調べ始める。

【歴史研究 国家の思惑で左右】
ハンガリー動乱は、当時の共産党政権やソ連軍の実質的な支配に反対する市民が、各地でデモ行進を実施。対するハンガリー政府側がソ連軍に鎮圧を要請し、約3000人が亡くなり20万人以上が亡命したとされる事件だ。東側陣営だったハンガリーでは動乱について語ることは長く禁じられ、ソ連でも一般市民はその存在すら知らなかったという。動乱直後から西側メディアによる報道やドキュメンタリー制作などは行われたものの、歴史研究として大きく動き始めたのはソ連崩壊後の90年代に入ってから。研究者の間で「ルネッサンス」とも例えられるほどソ連時代の公文書が大量に開示されたそうだ。ところが、2000年代に入ると開示された資料が再び非開示となっていく。プーチン政権の誕生が影響していると考えるのが自然だろう。木村の研究でも知りたい部分の資料が非開示となる事が多いといい、国家の思惑によって左右される歴史研究の難しさが浮き彫りとなっている。

【イメージと違うロシアの研究者たち】
法政大を卒業した木村は、モスクワ大学の大学院へ進学。博士課程修了後、ハンガリー政府の奨学金を受けたことから、ブダペストを拠点に研究を続けることになる。その後、ロシアの国立研究機関であるロシア科学アカデミー・スラヴ学研究所に所属。同アカデミーではロシア人以外は正規の研究員になれないため、リサーチャーアソシエイトとして予算を得て研究を続けている。木村によると、一般的にアカデミアでは研究者たちが助け合うことはまれだと感じるそうだが、スラヴ学研究所のロシア人研究者たちには連帯感があるという。「面白い資料を見つけたけど、あなた使えるんじゃない?」と垣根を越えて融通し合ったり、政治に対しても「ここがおかしい」とズケズケ言い合ったり。木村が語るロシア人研究者像は、私が持つイメージとは違ったものだった。

【6月22日朝4時 再び】
木村を含む多くの研究者たちが「予想外だった」と語るウクライナ侵攻は、2月24日早朝に始まった。同居する夫からこのニュースを聞いた直後、愕然とする木村の頭をよぎったのは「6月22日朝4時ちょうどに」と呼ばれる第二次世界大戦中にソ連で流行した歌。当時人気だったワルツにウクライナ(当時はソ連の一部)の詩人が歌詞を書いたもので、市民の間で広まったものだ。
-6月22日、早朝4時きっかり、キエフが攻撃され、私たちは戦争が始まったと知らされた。平和な時は終わり、別れの時が来た。私は戦場に行かなければならない…
ここで歌われているのは、ナチス・ドイツにソ連が侵攻された状況。約80年の時を経て今度は“侵攻された側”のロシアがキーウなどへ攻撃を開始したのだ。木村はモスクワの宴席でこの歌をロシア人から聞かされたという。これまで、ウクライナはロシアにとって「兄弟の国」とも言われてきた。「こうしてロシア人に歌い継がれてきた場所を攻撃するなんて本当に信じられませんでした」。歴史を知っているからこそ、今回の侵攻への驚きは人一倍大きかったのだ。

【ロシア人研究者の思いに涙】
2月24日以降、ロシアの研究者たちから漏れ伝わる声は、侵攻に対して否定的なものばかり。もちろん彼らはそれを表立って言うことが出来ない。ロシア軍に関する「偽情報」を広めれば最長で15年の禁固刑になるという法案が成立し、BBCやブルームバーグですらロシアでの活動を停止。国の研究機関に在籍する研究者たちが声を上げられるはずもなかった。そんな中、木村は得意のロシア語を生かして難民ボランティアに参加することを決め、友人に向けてFacebookで報告した。ほどなくして驚きのコメントが書き込まれる。「私たちはあなたと一緒にいます。出来る限り不幸なウクライナの人たちを助けてください。私たちはこの恥をこれから長い間をかけて洗い落としていかねばなりません」。木村が尊敬するロシア人研究者からのコメントだった。木村同様にロシアを愛して研究を続ける先輩の心の叫びに、涙を抑えることができなかった。
「彼らが同じ立場でも同じことをやったはず」。そう考える木村は、仮にボランティア活動が問題になり研究所にいられなくなる可能性があるとしても迷いはないと力を込める。「研究者はどこにいてもどんな状況でも、やろうと思えば研究を続けられる。もし研究所に迷惑が掛かるならば退けばいいだけです」

【これから全てうまく行く】
木村は現在、週に2~3日のペースでブダペスト郊外の国際空港でのボランティア活動を続けている。2月の侵攻直後、空港には1日100~200人ペースでウクライナから難民が押し寄せた。今も1日20~30人が主にウクライナ東部地区からやってくる。難民の多くは海外へ出た事がなく英語も喋れない。チケットの買い方すら分からないのが現状だ。母国に夫や子どもを残し、ふらふらになりながら到着した見知らぬ空港。木村は、どこへ向かえば良いか分からず右往左往する難民を見つけてはロシア語で声を掛け、優しく自然に会話を始める。ロシア語を聞いてほっとするのか、彼らの表情は決して暗いばかりではなかった。だが表情とは裏腹に、難民の口から聞く避難状況は苛烈を極める。「乗るはずだった列車がミサイルで攻撃され多くの人が死んだ」「自分の店が爆撃され全てを失った」。そうした声に対して木村は何かを言うでもなく、ただ寄り添いながら話を聞いている。話し終えた難民たちが口をそろえるのは「これから全てうまく行く」という言葉だという。

【歴史を善悪で判断しない】
密着中、木村の友人であるウクライナ人研究者Aさんとテレビ電話がつながった。Aさんは大量虐殺があったとされるブチャに住んでおり、紙一重のところで避難して無事だった。普段は冷静というAさんだが、この日は顔を紅潮させながら「ロシア軍がカニバリズム(食人)をしていても驚かない」とまで語った。人類は誕生以来、常に殺し合いを続けてきた。歴史の研究はある意味で戦争の研究と言い換えられるかもしれない。Aさんの強烈な言葉の裏には、研究者としての無念さが漂っているようだった。今、多くの研究者が木村やAさんと同じようにショックを受け、研究の意味を問い直しているのではないか。そう思い「歴史研究の意味」を木村に問うと明瞭な答えが返ってきた。「歴史は記載しなければ無かったことになります。だから必ず書き記さなければならない。大切なのは客観性を持って書くこと。歴史を善悪で判断してはいけません」

【これからも支援続ける】
一方で、今回のウクライナ侵攻により「心」は木村を揺さぶり続けている。最も大きいのは尊敬するロシアの研究者たちが置かれた状況への不安。何かのきっかけで彼らが反政府勢力とみなされ、拷問されたり殺されたりする可能性もないとは言い切れない。木村は「もしそうなったら、私はスパイになって復讐に行くぐらいの気持ちでいます」と研究仲間への強い愛を言葉にした。
ただ、侵攻や虐殺への憎しみは生まれていても、憧れの国への思いは今も変わらないままだ。「私はロシアに魅せられ研究の道へ入りました。だからこそ、当事者意識があるのかもしれない」「仮に侵攻が終わったとしても難民がいなくなる訳ではありません。これからも必要とされる限りはボランティアを続けていきたい」。木村の力が必要とされない日が来るのは、果たしていつになるのだろうか。

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クレジット

撮影・監督・編集
奥村盛人

プロデューサー
井手麻里子

特別協力
小形進之介

映画監督

1978年岡山県生まれ。2001年から高知新聞社で8年間記者生活を送る。新聞社を退社して映画美学校で映画制作の基礎を学ぶ傍ら、35ミリフィルム撮影の現場も経験。初監督作「月の下まで」(監督・脚本)がSKIPシティ国際Dシネマ映画祭などにノミネートされ、2013年から全国で劇場公開される。2016年から早稲田大学ジャーナリズム研究所に所属し、ドキュメンタリー映画「魚影の夢」(劇場未公開)を監督・撮影。2017年から拠点をヨーロッパに移し創作活動を続けている。2013年から高知県観光特使。

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