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変態デニム人が作る、きっと未来のヴィンテージ・デニム

OPENERS 松本博幸OPENERSメディア統括ディレクター

究極のジーンズを目指し、日々研鑽を積む男がいる。現存するヴィンテージデニムの中でも最も秀逸で・・・現在の基礎とされる、1940年代当時の素材と製法を愚直なまでに追い求め、世界でも類を見ないオリジナルの製品へと昇華させた。作り手の情念が滲み出るようなこのデニムが今まさに地方を変え、世界を驚かせようとしている。

90年代のヴィンテージブームがきっかけ

多くのファッション好きにとって、ジーンズが特別なアイテムであることに異論はなかろう。岡山県児島が長らくその聖地というのは揺るぎないが、熱狂的なデニムファンは滋賀県八日市に足繁く通っているという。ラグビー全日本代表の堀江選手もその一人で、その発信地となっているCONNERS SEWING FACTORY(コナーズ・ソーイング・ファクトリー*以後CSF)を紹介していただき、同工場を主宰する小中儀明氏に話をうかがった。

「ファクトリーは今年で10年目、会社設立からは27年目を迎えました。そもそもこの業界に足を踏み入れるきっかけとなったのは、20歳のときにセレクトショップFORTY NINERSを立ち上げたことでした。オープン当初はヴィンテージジーンズブームの真只中でした。いわゆるレプリカブランドをたくさん取り扱っていましたし、自分もヴィンテージに魅了された一人でもあるのです。でも、なかなか心底満足できるデニムに出会うことがなかったのです。それなら自分で作ってみるしかないと思い立ち、ファクトリーを始めることになりました」

1930〜1960年代のユニオンスペシャルとシンガーミシンのストック。手に入りにくいパーツ類も併せて、現在の部品交換と将来の工房増床に向けて、常にメンテナンスをしながら、保存している。
1930〜1960年代のユニオンスペシャルとシンガーミシンのストック。手に入りにくいパーツ類も併せて、現在の部品交換と将来の工房増床に向けて、常にメンテナンスをしながら、保存している。

失われた技術を発見し、おそらく当時の縫製に最も近いのではないか

ファクトリーに足を踏み入れた瞬間、壁一面を占拠する大量のミシンに圧倒される。それらすべてが希少な年代物で、セッティングやメンテナンスまで自らの手で行っているという。単なる縫製担当者ではなく、自らをニードルワークアーティストと称するのも納得だ。小中氏が手がけるオリジナルブランドONE PIECE OF ROCK の製品は、すべて本人の手作業によってこのファクトリー内で仕上げられている。

「3箇所のファクトリーにヴィンテージミシンを合計で500台ほど保有しています。一番古いものは約120年前のミシンですね。一般的にヴィンテージと区分される1930年代から60年代まで全ての年代を網羅できるように、セクションに分けて保管しています。年代によっても、工場によっても、部位によっても使うミシンが異なるからです。長らくデッドストックやヴィンテージに触れていると、戦前はアイロンもマチ針も使わず直接ミシンがけをしており、型紙も現在とはかなり違うことが分かりました。そこで、実際に自分の手を動かしながらたどり着いたのが“手曲げ”という縫い方です。普通なら真っ直ぐミシンをかけるために縫い代にアイロンをかけ、目印となるマチ針を打つのですが、僕たちは生地を手で折り込みながら直接ミシンをかけていきます。当時のジーンズに個体差がかなりあるのはそのためなのです」

古いミシンパーツも貴重なので、メンテナンスしながら使いやすいように調整をしている
古いミシンパーツも貴重なので、メンテナンスしながら使いやすいように調整をしている

業界の常識を覆す一貫生産でレプリカを超越する未来

こだわりのデニムと謳うブランドの多くが、実際には児島や福山のOEM 業者に生産を依頼し、さらに工程ごとに分業化がなされているのが実情だ。そんな中、小中氏は生地そのものから付属品まですべて自前で揃え、さらに自らの手で縫製したものだけしか認めない完全なる一貫生産なのだ。商売という観点からすれば、単純化したい作業は外注するのが一般的だがONE PIECE OF ROCK でそれは許されない。

「織機は岡山に保有していて、専任のスタッフがデニムを織っています。現存するヴィンテージは経年変化して当時の状態が判別できないので、当時そのままの色合いや風合いを留めたデッドストックを年代ごとに保管して、そのデニムを分解したり、つぶさに観察しながら、綿糸の選定から紡績や染色まで、全て自分たちで研究して生み出した完全オリジナルのデニム生地です。ボタンやリベットといった付属品も、全て自分が理想としている1940年代当時の原型とほぼ近いものをオリジナルで作製しています。協力いただいている方々には感謝のかぎりです」

世界的にヴィンテージデニムが高騰し、一部のマニアやコレクターでしか手が出ない骨董品のようになっているが、CSFでは同業者もひっくり返るくらい希少なデッドストックを大量に保管している。当時そのままの素材と縫製を現代に甦らせることができれば、結果的に当時と全く同じデニムが生まれるはずだという信念に基づいているからだ。

「19世紀末にアメリカで生まれたジーンズは、時代とともに変化しながら1960年代に完成したプロダクトです。でも、1970年代に高性能のミシンが登場して大量生産が可能になり、生産拠点が海外移転していきました。それまでアメリカで培われてきた技術は、継承されることなく途絶えてしまったのです。90年代になって、僕の少し上の世代がヴィンテージに価値を見出し、そこからヴィンテージレプリカジーンズが生まれ、失われた技術を現代に再現しようという動きが現れた訳です。当時と同じ道具を揃え、素材から縫製にいたるまで完全に再現することで、これまでのレプリカを超えたオリジナルに近づくことができると考えています。唯一足りないものがあるとすれば、それは時間です」

自信があるからビジネスでも信念を貫く姿勢により信頼感を感じた

経年変化にかかる時間だけが、唯一足りない要素であると語る小中氏。いわゆる“ヴィンテージ風”やありきたりの“復刻版”を超越した、“未来のヴィンテージ”がこのファクトリーで生み出されているという訳だ。そして、このデニムを入手できるのは店頭販売のみ。オーダーしてから1年以上も待たされるというのに、筋金入りの目利き趣味人たちが滋賀のショップへと足を運んでいる。名は書けないがインスタを拝見すると、噂を聞きつけここへたどり着いた著名人たちもいるようだ。

「ファクトリーで働いているスタッフを含め、岡山の縫製工場に勤めている職人さんが1日で縫い上げる本数の倍以上を縫い上げていると思います。それでも間に合わないくらい、オーダーをいただいているのです。儲けを優先するなら、もっと手間を省いて効率化できるのですが、それをやってしまったら終わり。買ってくれる人たちを裏切ってしまうことになる。目先の利益に惑わされて、無くなっていったブランドをたくさん見てきましたから、自分たちはそうなりたくないんです。」

こだわりや職人技といった使い古された言葉では表現できないほど徹底的に突き詰め、ひとつのプロダクトとして究極の形へと結実させたONE PIECE OF ROCK のアイテムは販売方法も極めて限定的だ。お金さえあれば何でもすぐに手に入る時代において、このようなビジネスを貫くことができるのは、プロダクトに絶対の自信があるからだ。

「このブランドを始めた当初、多くのレプリカブランドが2万円前後で販売していましたが、僕たちのジーンズは2万8000円で売り出したんです。周囲の同業者からは、そんな高額なジーンズが売れる訳ないと言われましたが、実際に見て触れていただければ、必ず納得していただけるという自信があったからです。その自信が確信に変わったのは、この業界で一番尊敬している根本さん(富山のカリスマ的セレクトショップ、フォアモーストのオーナー)に認めていただいたことです。原材料の高騰もあって、デニムとしてはかなり高額になりましたが、それだけの価値があることをやっているし、理解してくれるファンがいるから今まで続けてこられたと思っています。それでも、最後の一人のお客さんになってしまうかもしれないという危機感は常に持っています」

それぞれに製造署名とナンバーを記す。転売などの防止にも。
それぞれに製造署名とナンバーを記す。転売などの防止にも。

ディテールや製法における専門用語を詰め込んで、頭でっかちになってしまったデニムファンが少なくないし、我々メディア側の人間が本質的な部分をよく理解しないまま表層的なところばかりに気を取られてしまっていることも自戒せねばならない。虚心坦懐に一つのことに向き合い続け、実際に手を動かす人間には説得力がある。

「デザイナーさんでもバイヤーさんでも、そういう方はたくさんいらっしゃいますよ。90年代のヴィンテージブームがあったおかげで、ウンチク好きのファンが多いというのは同感です。僕は分からないことは分からないと素直に言うべきだし、疑問があれば知見のある方に教えを乞うようにしています。僕たちの商品を手に取ってくださるお客様に、本当のことを知って欲しいし、嘘を吐きたくないから。同業者やメディアの動向についてはあまり気にしていないですし、他ブランドに対して意見するつもりは毛頭ありませんが、自分とは違うなと感じることが多いのも事実です」

デニムで地方経済を活性化させる

デニムに取り憑かれた小中氏に感化されたかのように、ニードルワークアーティストを目指す仲間が増え、CSFはさらに活況を呈している。若者が都市部へ移住し、疲弊していく地方都市が多い中、従来の工場作業員という扱いではなく卓越した技術を持ったアーティストとして従業員を育成する。京都の西陣織のように、ヴィンテージデニムが地域に根ざした一種の手工芸品として認知され、まだ規模は小さいながらもひとつの経済圏を作り上げようとしている。

「デニムを通じて、若い人たちに働くことの楽しさが伝わればいいなと思っています。このファクトリーをあえて地元で始めたのも、雇用を生み出すという自分なりの目標があったからです。そうして、スタッフたちに家族ができ、持ち家を手にすることができるようになったことは、自分の仕事が世間的にも認められた結果だと自負しています。長年取引している銀行のお偉いさんから、講演会に出演して欲しいと声をかけられたことをきっかけに、たくさんのオファーをいただくようになりました。現在はあまりにもオファーが多いので、地元のために役立つならいいなと東近江市に限って受けるようにしています。地元で商売するということは、周囲の目もあるのでいい加減な仕事はできないというちょうどいい緊張感を持たせてくれますから」

第二次世界大戦後に物資制限が解除された1946年、フルスペックに戻ったデニムジャケット。度重なる変化を経て生み出された希少な一着を、CSFが甦らせた渾身の1着。32-44サイズ ¥74,800、46-56 ¥78,100 (ともに税込)
第二次世界大戦後に物資制限が解除された1946年、フルスペックに戻ったデニムジャケット。度重なる変化を経て生み出された希少な一着を、CSFが甦らせた渾身の1着。32-44サイズ ¥74,800、46-56 ¥78,100 (ともに税込)

きっと未来のヴィンテージ・デニムが、2歩先を行くファクトリーとしてこれからも

自身のショップでの受注販売はもとより、地元商店街や近畿地方のセレクトショップでの販売イベントを通じ、着実にCSF の知名度は高まっている。安易に首都圏へ進出せず、地元発信にこだわっているのは、単なるファッションとして消費されることへの懸念と、自らの手が届く範囲で偽りのない本物を届けたいという想いがあるから。

最高峰のヴィンテージとされる40年代に特化し、当時と同じ素材と製法を現代に再現する。多くのブランドがどこかで妥協せざるを得なかったことに真正面から挑み、今まで誰も成し遂げられなかったことを成し遂げてしまったのだ。さらに、地元に新たな雇用を生み出し、地方都市の活性化に大きな影響を与えているのだ。

世界でも類を見ない特異な進化を果たしたデニム王国である日本。その中で突然変異的な進化を遂げた“未来のヴィンテージ”が、本物を求める世界のデニムファンを滋賀へ引き寄せている。

OPENERSメディア統括ディレクター

出版社在籍中はモノマガジン、クロムハーツマガジン、企画特集ムックなどを手掛け、05年に独立。コミュニティFMラジオ局のプロデューサーと並行してWEBマガジン「OPENERS(オウプナーズ)」の立ち上げに参画。2017年にスマートメディアにてOPENERS統括ディレクターに就任。編集企画、広告企画を手掛ける。人脈を活かし、さまざまなプロジェクトやコラボレーション企画、商品開発にも携わる。