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「香りが生活に活力やメリハリを与えてくれる」香りをダウンロードできるプラットフォーム事業への挑戦

太田信吾映画監督・俳優・演出家

食品や化粧品、薬品などを通じて私たちの日常とは切っても切り離せない香り。その世界に変革が起きつつある。先頭を走るのが、香りをデジタルデータ化したプラットホーム「Smell Market」だ。利用者はさまざまな香りのデジタルデータをダウンロードして、手元の専用ディフューザーで「再生」する。この事業を展開するのは、大手IT企業のエンジニアをへて独立した台湾出身の起業家アレックス・ツァイさん(39)。台湾料理の匂いをかげば、離れた故郷を思い出す。アレックスさんにとって、香りは心の安定を保つツールでもある。末期がんの知人の「香水が好きだけど気軽に買いに行けない」という言葉にも背中を押され、香りのDX(デジタルトランスフォーメーション)化を決意。調香師やディフューザーメーカーと連携して走り続けている。

■“香り”業界のDX化に向けた新サービス

香りはハンドクリーム、香水、洗剤、シャンプーなどさまざま商品の欠かせない要素であるほか、アロマデュフューザーなどを使って香りそのものを楽しむ人が増えてきた。一方、消費者が香りを楽しむには、香りを出す商品の実物を買うしかない。匂いや香り産業はインターネット社会の中でDX化されていない産業の一つである。

音楽ならば、アップル社のiTunesなどのプラットホームを通じてデジタルデータ化された音源をダウンロードし、いつでも、どこでも楽しめるようになった。だが、同じように香りを扱うプラットホームは、まだない。アレックスさんは、ここに目をつけた。

■料理の匂いで思い出す故郷

「匂いは昔から自分にとって身近なものでしたね。たとえば、日本で食べる台湾料理で故郷の景色や離れて暮らす家族の顔を思い出したり」
アレックスさんは5歳まで食堂を営む祖父母らとともに台湾の高雄で暮らしていた。台湾では日本以上に外食文化が浸透しており、家には煮込まれる排骨飯(パイコーハン)がたてる湯気がこもり、多くの来店客の会話が響いていた。そんな日常が、一変することになった。日本で母が日本人男性と結婚し、アレックスさんも母とともに大阪で暮らすことになったのだ。

慣れない異国での暮らし。ホームシックになることもあったが、記憶の再生装置として機能し、心の寂しさを紛らわせてくれたもののひとつが「匂い」だった。成人すると、ディレクターとして大手IT企業に勤務。退職後、「ユーザーのかゆいところに手が届く」をモットーに、民泊などさまざまな事業を成功させてきた。一方、社会人になってからも、香りは彼にとって欠かせない存在となっていた。夏になれば制汗剤を使ったり、デートの際にはロマンチックな匂いのする香水をつけたりしていた。プレゼンテーションなどプレッシャーがかかる仕事の前日には、アロマオイルでリラックスすることもしばしばだった。

■サービスを届けたい人

「目的や時間帯によって、嗅ぎたい香りって変わるじゃないですか。でも頻繁に香りを変えるのって、とても難しくて」
香りについて、アレックスさんが意気投合した人がいる。末期がん患者のマイさんだ。2023年の初頭、ファッションスタイリストの友人からの紹介で出会った時には、すでに闘病中だった。

マイさんは21年10月に乳がんと診断された。すでに肝臓、肺、骨、胸、リンパなど多くの器官に転移しており、医師から余命宣告を受けた。子供はまだ幼く、夫とともに家庭を築き上げていこうとした矢先のことだった。抗がん剤治療によって症状は少しやわらいだが、医師からは「あくまでも延命だからね」と釘を刺されている。

それでも家族と過ごす日々を大事にしたいという彼女は、在宅での治療を続けている。抗がん剤の激しい副作用によって出歩けない日々も多い。そんな中で、香りは暮らしに彩りを添えてくれる大切な存在だ。

「香りって、生きる活力やモチベーションを与えてくれるんですよ」

起床時や日中、就寝前といった1日の節目に香料を使う。そうすることで、ともすれば同じ家の中で平板になりがちな日々にも彩りとメリハリが生まれる。抑うつや不安な状態、気分の高揚をリラックスさせる時など、その時の気分によってさまざまな香りを使い分けることで、精神を安定させる効用もある。

こんなマイさんの話に自身の経験を重ね合わせ、アレックスさんも共感した様子で相づちを打っていた。だが、マイさんの一言で、アレックスさんの表情が曇った。

「色んな香りを楽しみたいんですけど、頻繁に買いにいかなきゃならないのがつらくて」

外出が制限された闘病生活の中、マイさんは通販や人に頼んだりして香りを購入してきた。ただ、買ってはみたが好みとは違い、使わなくなることも多かったという。

「マイさんのように病でなかなか外出できない人はもちろん、日々の暮らしの中で香りを必要としている人たちが、どこにいてもどんな状況でも、好きな時に色んな香りをダウンロードして気軽に楽しむことができるサービスを作りたい」

マイさんとの出会いに先立つ21年から、アレックスさんはSmell Marketの構想を練ってきた。だが、資金調達やシステム開発、特許申請などの困難が続き、心が折れそうになることもしばしばだった。それでも多様な香りを手軽に楽しみたいというニーズがあると知ったアレックスさんは、「あきらめてはいけない」と事業の成功を改めて誓った。


■香料を巡る課題

アレックスさんは、ユーザー側の要望を再認識する一方で、調香師ら香りに携わる側の課題についてもリサーチを始めた。香料は大別して、自然由来の天然香科、化学的に作られる合成香料と、それらを合わせた調合香料に分類される。用途別には食品など口に入るものに使用される「フレーバー」と、口には入れない化粧品などに使われるフレグランスがある。

アレックスさんから香りのサポートを依頼されたアロマにも精通した調香師の川島侑子さんは、ユーザーの好みに応じて人工、天然、調合香料を使いこなしてフレグランスのヒット商品を多数生み出し、高い支持を得ている。川島さんによると、香料を調合するうえでの課題のひとつが合成香料の使用期限だ。調香師はユーザーに好みの香りをつくるため数多くの合成香料を仕入れているため、大きな保管スペースが必要になる。また、自然由来ではない香水は、開封してから半年から1年以内に使い切るのが理想だと一般的に言われている。酸素に触れると香料が酸化し、色や香りが少しずつ変化するためだ。アルコールが揮発して香料が濃縮され、香りが変わることもある。アレックスさんが事業を進めるうえでも、考えなくてはならない課題だ。

■ディフューザーメーカーとの提携

香りのDX化はどの程度進んでいるのか?アレックスさんが市場調査をすると、固形化した複数の香料を入れられる、アプリで操作できるディフューザーがあることがわかった。一方、さまざまな香りのデータを手軽にダウンロードできるプラットホームは存在していない。アレックスさんは、音楽でのiTunes的な存在となるプラットホームの立ち上げに目標を絞り、事業化に動き出した。ユーザーはアレックスさんが立ち上げるプラットホームSmell Marketから香りのデータをダウンロードし、ディフューザーで再生するというイメージだ。

■立ち上げの困難

ディフューザー開発メーカーと提携し、ディフューザーのめどもたった。香料を提供してくれる会社も見つかった。実用化に向けまず課題となったのが、ディフューザーに挿入できる香りが限られていることだ。いまの技術では、カートリッジに挿入できるのは6種類の香料だけ。Smell Market上で配合することで、できる限り多様な香りを楽しんでもらうのに最適な6種類の開発が難航した。調香師の川島さんらの協力も得て、最終的には男性が良い香りと感じる物、女性が良い香りと感じる物、自然の香りが少し合成できる6種類を開発した。

香料を開発したアレックスさんたちに、次の壁が立ちはだかった。ディフューザーで香料を再生するためには液体の香料を固形化する必要がある。ところが、液体から香料を固形化するプロセスで、香料の匂いに変化が生じてしまう事態が発生したのだ。これではせっかく6種類の香料を開発した意味がなくなってしまう……。アレックスさんは諦めずに試行錯誤を重ね、液体の香料の希釈度合いを調整するなどして本来の香りに近づけることに成功した。

6種類の香料をもとにどんな「香りのコンテンツ」を提供するか。これにはアレックスさんの思いに共鳴したアーティストや調香師、スポーツ選手らが協力に名乗りを挙げた。そのひとりが、元プロ野球選手で現在はクリケットの全日本代表として活躍する木村昇吾さんだ。香りのリラックス効果で試合前の緊張をほぐしてきたという木村さんは、「いつでも、どこでも好きな香りを」というアレックスさんの構想に賛同し、開発メンバーに加わった。ピンチの時に嗅ぎたい香り、やる気を出したい時に嗅ぎたい香りなど、自身の経験をもとに調合した「香りのデータ」を提供している。こうしてさまざまな人物が香りのデジタルデータの作成に携わり、1000種類以上の香りを楽しめるプラットホームの設計が徐々に整っていった。

■サービスの現状と将来の展望

2023年夏、香りのデジタルデータのプラットホームSmell Marketが、サービスを開始した。アレックスさんは、7月22日に開催された「第7回価値デザインコンテスト~社会課題解決をビジネスに実装せよ」(日本青年会議所主催、113社参加)で、「世界70億人の鼻を取りに行く」と題してプレゼンテーション。「社会にインパクトを与えた社会貢献につながる優れたビジネスプランを確立した」として、デジタル大臣賞に選ばれた。幸先の良いスタートを切り、ユーザー数も右肩上がりに上昇をしている。

開発を進めるきっかけとなったマイさんにも製品を届けた。「これがあれば、手軽にさまざまな香りを楽しめる」とよろこんでくれた。真っ先に反応を知りたい相手からの好意的な反応に、アレックスさんは満足感を得た。一方、課題もある。ディフューザーは数万円と、気軽に買える値段ではない。カートリッジに挿入できる香りは6種類だけなので、再生できる香りのデータには限りがある。

「今後はよりカートリッジを挿入できるディフューザーを開発してくれるメーカーさんとの提携を増やし、再生できる香りの種類を増やしていきたいです」

アレックスさんの挑戦は始まったばかりだ。

【この動画・記事は、Yahoo!ニュース エキスパート ドキュメンタリーの企画支援記事です。クリエイターが発案した企画について、編集チームが一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動はドキュメンタリー制作者をサポート・応援する目的で行っています。】

ディレクター・撮影・編集:太田信吾
プロデューサー:高橋 樹里
アソシエイトプロデューサー:中西英隆
協力:セイショーコ 他

映画監督・俳優・演出家

1985年長野生まれ。早稲田大学文学部卒業。『卒業』がIFF2010優秀賞を受賞。初の長編ドキュメンタリー映画『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(13)がYIDFF2013をはじめ、世界12カ国で配給。その他、監督・主演作に劇映画『解放区』(14)、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2022優秀芸術賞受賞の『現代版 城崎にて』(22)。俳優としても、舞台や映像で幅広く活動。

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