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織田信長の性格は怖いだけではなく、優しさや気遣いのできる人だった。

歴ブロ歴史の探求者

一般的な織田信長のイメージは、自分に反対する者や勢力には容赦のない性格を想像する人が多いと感じます。比叡山焼き討ちなどから連想する人がほとんどでしょう。他にも信長を暗殺しようとした杉谷善住坊の処刑で、首から下を地中に埋めてわざと切れ味の悪い竹のノコギリで首を少しずつ切り落としたとも言われています。

このように残忍なエピソードが多くある織田信長はやっぱりイメージ通りの怖い人だったのでしょうか?

ルイス=フロイスによる信長の印象

出典:イラストAC
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信長に関する史料として太田牛一の【信長公記】がありますが、ルイス=フロイスが書いた【日本史】は、当時の事を外国人が本国への報告のために忖度なしに書いている事から、非常に有益な一次史料となっています。

そこで織田信長の性格をルイス=フロイスの書き残した【日本史】をもとに紹介して行きましょう。

フロイスは織田信長について【体はヒョロッとやせ形で、髭は少なく、声は甲高い、武芸を好み下品で荒々しく、お酒はほぼ飲まない※】と記しています。

声で一般的な性格が分かるサイトを見ると、甲高い声で話す人は神経質で自己中心的な人が多いそうです。また、興奮しやすく自分の考えが正しいと思う事が多く、他人にも考えを押し付ける傾向が強いとされています。これはあくまでも傾向なので、すべての人が当てはまるわけではありません。

ここまでみると私のイメージ通りの織田信長ですが、フロイスが感じた生の信長像が記されている内容をいくつか箇条書きにしてみました。

  • 睡眠時間は短く、起床は早かった
  • 普段は大人しいが喜怒哀楽が激しい時もある
  • 戦好きで、鍛錬に励んでいた
  • 曲がったことが嫌いで厳格
  • 家臣の意見を聞かず、自分の意見を突き通す
  • 宗教的なことは、否定的であった。
  • 人情味のある行動を示すこともあった。
  • 家臣の出生に関係なく親しく話をする。
  • 有力者に対しても上目線で否定的だった

※ルイス=フロイス『日本史』を参考にまとめました。

感想としては仕事は出来そうですがチョット性格に難がありそうで、一緒に働くには面倒くさい上司に思えます。

織田信長の心温まるエピソード集

出典:イラストAC
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フロイスは信長を【正義感と慈悲に関係ある事は喜んで実行する男】と評しています。第六天魔王と呼ばれた織田信長に【正義感と慈悲】とは似合わない言葉が出てきました。

信長公記では、美濃と近江の国境近くに住んでいる【山中の猿】と呼ばれる障害を持った男に木綿20反を与えて『これを金に換えてこの者に小屋を建ててやれ。それから、この者が飢えないように毎年、麦や米を施してくれれば自分はとてもうれしい』と村人に頼んだそうです。

この信長の行動は本人だけではなく、そばに居た村人までも涙を流したと伝えられています。

また、部下にも優しさを見せる時があり、秀吉の浮気に怒った【ねね】に対して信長は、ねねの味方になり以下の内容の手紙を送っています。

この度、安土城にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。
土産の数々も美しく見事でとても表現できない程だ。
私からお返しをと思ったが、そなたの土産があまりに見事で、何を返せば良いのか思い付かなかったのでそなたが今度来た時にでも渡そうと思う。
そなたの美貌も前にあった時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。
藤吉郎(秀吉)が浮気をしているとのことだが言語道断けしからぬことだ。
どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見つけることができないだろう。
これより先は、身の持ち方を陽快にして奥方らしく堂々と、やきもちなどは妬かないように。
女房の役目として、思ったことを全て言うのではなく、ある程度に留めて言うとよい。
この手紙は、秀吉にも見せること。

まず、信長は秀吉の事をサルではなく【禿ねずみ】と呼んでいたことに驚きでした。内容は、魔王と呼ばれる信長がイメージできないくらいの心使いです。これが、自分の妻ではなく家臣の妻に送られた手紙なのが驚きです。

優しいけれどやっぱり織田信長でした

出典:イラストAC
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フロイスは【戦術を立てる際に部下の進言を聞き入れる事はめったにない】とも記しています。箇条書きにもありましたが、やっぱり信長は人の意見は聞かなかったようですね。

「すばらしい理解力と明晰な判断力を持ち、神仏やその偶像を軽視し、卜占など全く意に介さない。他人と語る場合は、その相手が回りくどい説明などすると、すぐに嫌な顔を見せる」
引用:フロイス『日本史』より

上記のように神や仏を信じておらず、話がグチグチと回りくどい人が嫌いだったようです。勝手な解釈ですが、信長が神仏を信じなくなったキッカケになったのではないかと思われる事が書かれた記述がありました。

「父の信秀が瀕死のとき、信長は仏の僧侶に祈祷を願い、僧侶たちは信秀の病気が回復すると保証したが、信秀は数日後に亡くなった。これに信長は僧侶たちを監禁し、彼らのうちの数人を射殺したという」
引用:ルイス=フロイス『日本史』

天下統一目前の信長は、自分を神のような存在として礼拝するように言いだします。これは、どこにいるかわからない神・仏より、実際にこの国を治めて良くしようとする、実在する自分を崇めよって事なのだと思います。こうしてみると織田信長は徹底的な合理主義者だった事が想像できます。

信長については、秀吉・家康にくらべて史料が少ないことから、後世の軍記物などで脚色されて苛烈な信長像が出来上がりました。近年では、研究が進み心が穏やかで非常に生真面目な性格だったのではないかと考えられています。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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