Yahoo!ニュース

【徳川家康の関東移封】は左遷か?栄転か?当時の秀吉・家康はどう考えていたのか?

歴ブロ歴史の探求者

徳川家康は幼少期に今川家で人質時代を過ごし、独立後は織田信長と同盟。本能寺の変後は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃国を治める大名に成長しました。

豊臣政権下では小田原討伐後に秀吉の命で関東八州を与えられますが、三河を含めた旧領は没収されます。しかし、家康は腐ることなく江戸周辺で多くの大工事を行い、現在の東京の基礎を作り上げていきました。

そこで今回は徳川家康の関東移封について考えていきます。

徳川家康の関東移封は左遷か?栄転か?

イラストAC 小田原城
イラストAC 小田原城

後に江戸幕府を開いたので結果的には栄転となった関東移封ですが、どのような経緯で関東転勤が決まったのでしょうか?

1583年に徳川家康の娘が北条氏に嫁いでいた事で、家康は豊臣と北条の調整役をしていました。しかし、秀吉の北条討伐が決定されると、領地の立地条件から豊臣方の先鋒として戦に参加することになります。

この小田原討伐の陣中で、徳川家康の関東移封が決まる様子が『徳川実紀』に書かれています。詳細は省きますが、小田原が陥落する直前に秀吉が家康を呼び出して「江戸を本拠地にして関東へ移ってね」みたいなやり取りがなされました。

こうして、北条の旧領を得ることになった家康ですが、本拠地を小田原ではなく江戸と秀吉に指定されました。

徳川の所領である三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の五ヶ国で150万石だったが、関東移封後の所領は240万石が見込まれている事から栄転に思えます。しかし、これは結果論。当時そこまでの石高を見込んでいたのかは疑問です。

また、豊臣政権の中枢にいながら政治の中心である近畿地方から離れる形で、しかも発展した小田原より更に東の閑散とした江戸を本拠地とさせたわけですから「左遷」とも受け取れます。

秀吉による家康の関東移封の意図

豊臣秀吉
豊臣秀吉

江戸は古くから東国の水上・陸上交通の要所でした。相模・鎌倉・中原街道でつながり、さらに東北地方の奥州街道にもつながっています。秀吉は後に東北平定も考えていたので、奥州街道を確保するためにも江戸は重要な拠点でした。

こうした戦略拠点の江戸を任せる事で、豊臣政権内で家康を最大限に評価しつつ、合法的に政権中枢から地理的に引き離せることが出来るのが江戸だったのです。

また、織田信長(元上司)の盟友が家康であったため、大納言の地位を与えるなど政権内で厚遇していました。
そのため、北条が滅びたことで豊臣家に次ぐ実力を徳川家康が持ち、彼が謀反を起こせば豊臣政権も無事では済みません。秀吉の親友・前田利家も同じ危機感をもっていたようで、家康がいつ豊臣家に敵対するかを警戒していたと家臣の残した史料に書かれています。

小田原の立地は東国の喉仏である箱根に隣接しています。

箱根峠は陸上交通の要所で、ここを家康が治めれば豊臣政権にとっては都合が悪く、秀吉は小田原を家康の家臣・大久保忠世に入るように指示。これも家康の謀反を想定して、豊臣方に有利な動きをしそうな人選をしたと言われています。

徳川家康の関東移封についての思惑

徳川家康
徳川家康

なぜ家康は本拠地を江戸で納得したのでしょうか?

家康も関東移封を知った直後は驚いたとは思いますが、いざ転勤が決まると江戸に家臣たちを現地に派遣して様子を探らせていました。

一般的には当時の江戸は寒村であったと言われてきましたが、先述した交通の要所でもあったことから、ある程度発展をした地域であったと史料に記されているそうです。
そうしたことから、当時の江戸は北条氏の下で整備が進み重要拠点として発展しつつあったと思われます。

こうした情報も北条氏との婚姻関係で秀吉以上に持っていたのでしょう。そもそも、小田原では関東を支配するのに不便だったので、関東平野を一望できる江戸の方が地の利がありました。

秀吉による天下統一事業が完成され大名間の領土的争いがなくなれば、この広い関東平野を含む江戸の発展に力を入れられます。家康自身も、京都・大坂を拠点とする豊臣政権と距離を保ちつつ、秀吉に対抗しうる大きな力を蓄えやすい江戸は最適な場所だったと思います。

家康の胸の内は分かりませんが、小田原城が落城すると家康は秀吉の指示通りに江戸へと入るのですが、わずか2か月で領地替えを完了し、あまりの速さに豊臣秀吉も「早いにもほどがあるだろ」と突っ込みを入れたとか入れないとか…

関東移封で家康は喜び家臣は泣いた

徳川家康は故郷である三河を捨て関東を拠点とする決意を決めたのですが、ついていく三河武士たちの心境はどうだったのでしょうか?

高給取りにはなりますが、故郷と個人の財産を失い親族とも生き別れることから、関東移封は徳川家中で反対者が多かったようです。一方で家康は「三河を失うのは悲しい」と言っておきながら、土豪出身の三河武士たちを地元から切り離すチャンスと心では大歓迎だったとも。

この時代の大名家は領国の中央集権化に苦労しており、特に厄介なのが先祖代々の土地を支配していた土豪達。彼らが地元にいる限り主従関係を作るのが難しかったのです。

それは徳川家でも同じでしたが、秀吉による関東への転勤命令をキッカケに家臣たちの序列改革を変えようと考えます。また、秀吉が家臣達の知行や配置まで介入したのを利用し、自身が仕方なく従った風に三河衆たちの知行を決めていきました。

新参者の井伊直政を12万石と優遇する一方で、家臣団筆頭格の酒井忠次(この時にはもう引退していた)の息子には3万石の所領を与えています。この処置は三河時代では考えられないことでした。

こうして、関東に移った徳川家康は東海道時代に培った領国経営のノウハウを関東においても実践し、大きな改革を施して年貢の安定と軍事力の強化を図り、旧北条家臣団も家康に定着させることに成功しました。

そして、家康は政治の中心である大阪から離れていた事が幸いし、朝鮮出兵の際の国力低下を避けたことで関東一帯の絶大なる支配者となり、後の江戸幕府の礎を築いていくことになったのです。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

歴ブロの最近の記事