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豊臣政権の五大老・五奉行に選ばれた大名は秀吉の死後どのような人生を歩んだのか?

歴ブロ歴史の探求者

秀吉の死後、豊臣秀頼を補佐する形で政権を維持するために作られたのが、五大老・五奉行制度。この10人の合議制によって政務を行うとしてきましたが、徳川家康の台頭により数年で瓦解してしまいました。

やがて徳川家康と石田三成の対立が決定的となり、他の8人はそれぞれの思惑のもとに東軍と西軍に分かれて1600年の関ヶ原の戦いに挑むことになります。

そこで今回は、秀吉死後に選ばれた五大老・五奉行のその後を簡単に紹介していきましょう。

五大老はどんな人たちだったのか?

五大老筆頭・徳川家康
五大老筆頭・徳川家康

秀次事件後に秀吉が政権を安定させるため、有力大名達に連署をさせたメンバーを『五大老』と呼ばれています。初期メンバーには小早川隆景がいましたが、病没した事で上杉景勝がその後釜につきました。※元は景勝含め6人いたともされています。

当時の官位などから序列は徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝でした。秀吉の親友でもあり秀頼の教育係だった利家は、家康と同等の序列だったと言われています。

では五大老のメンバーを紹介しましょう。

徳川家康

関東に転封してからは250万石以上の大名となり、豊臣家に次ぐ実力を持っていました。
前田利家が亡くなると内密に派閥を広げ、石田三成と対立が激化。関ヶ原の戦いで三成を打ち破ると、1603年に江戸幕府を設立しています。

そして、1615年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を見届けると1616年に亡くなりました。

前田利家

豊臣秀吉が亡くなった時、前田利家は加賀・越中の約80万石の大名でした。
徳川家康が秀吉の遺言を確信犯的に破っていくのをすぐに非難したのが利家。家康も利家にはあまり強く出ていませんでした。
秀吉の期待通り前田利家は、家康をある程度抑え込むことには成功しています。しかし、1599年に病死。秀吉が死去してわずか8カ月後のことでした。

その後の前田家は嫡男・利長が家督を継ぐのですが、利長は実母を人質として家康に送り臣従。幕府成立後は加賀前田藩として幕末まで続くことになります。

宇喜多秀家

五大老で一番波乱万丈な人生を送ったのは、彼かもしれません。

秀吉に気に入られ破格の待遇で47万石を有する大名でした。正室には前田利家の子でもあり、秀吉の養女・豪姫を娶っています。

五大老にも指名され、順風満帆な人生を送っていましたが、関ヶ原の戦いで西軍の副大将に祭り上げられ敗北すると、戦後は島津氏に匿われます。しかし、1606年に島津氏が徳川に臣従するのをキッカケに、秀家は家康に引渡され宇喜多家は改易処分に…
何とか命は助けられたものの八丈島に流され、その長い人生を島で暮らすことになります。
一方で正室・豪姫は元実家の前田家に引き取られ、夫婦は離れ離れになりました。

秀家が亡くなったのは1655年で84歳の大往生でした。

上杉景勝

秀吉が政権を取ると臣従し、会津で120万石を有する大名となります。

秀吉死後に家康との関係が悪化し、1600年に家康は会津討伐に乗り出しました。しかし、上杉景勝(直江兼続)と密に連絡を取っていた石田三成が挙兵すると、家康は三成に兵を向けて関ヶ原の戦いが始まります。

上杉家は関ヶ原の戦いの本戦には参加してませんが、東軍の伊達・最上軍と別で戦っています。関が原で西軍が負けると家康に降伏しましたが、戦後処理で120万石⇒30万石まで減封されて米沢に移されました。
米沢藩の初代藩主となった上杉景勝ですが、1623年に69歳でその生涯を閉じます。

毛利輝元

豊臣政権下では中国地方112万石を有する大名でした。

関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将として大坂城に入城します。実際に、本戦で軍を率いたのは石田三成で、輝元は最後まで大坂を離れることはありませんでした。
そのため、戦後処理ではお家取り潰しは免れますが、112万石から周防・長門の37万石まで減封。輝元は隠居し、長州藩・初代藩主には嫡男・秀就が就任します。

1625年に享年73歳で輝元はその生涯を閉じました。

五奉行のメンバーは誰?

五奉行では中堅に位置していた石田三成
五奉行では中堅に位置していた石田三成

諸説ありますが、五奉行は浅野長政を筆頭に前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家とされています。秀吉の死後、定められて豊臣家の直臣で構成されました。

石田三成

秀吉の長浜時代から仕えていました。
主に行政を担当していた三成は太閤検地でも活躍し、戦の後方支援などでその能力を発揮していました。

秀吉の死後、遺言を忠実に実行していくのですが、その遺志に反した行動を家康がした事から両者は次第に対立していくことになります。
そして、関ヶ原の戦いで激突するのですが、敗北し処刑されてしまいました。

浅野長政

豊臣政権では、主に司法を担当したのが長政でした。石田三成とはあまり仲が良いとは言えず、関ヶ原の戦いでは徳川方に付き、江戸城の留守居を務めています。
この功績によって、常陸国真壁5万石を与えられ真壁藩を設立。嫡男は関ヶ原で軍功を挙げて、紀州藩37万石の初代藩主となります。1619年に福島正則が改易となり入れ違いで安芸・広島へ転封しました。

一方で長政は、幕府設立後に家康の側で仕え、1611年に65歳で亡くなっています。

前田玄以【徳善院玄以】

豊臣政権下では、京都所司代を務め朝廷とのパイプ役を務めました。また、寺社の管理などの宗教を担当する奉行として活躍しています。どうする家康では、徳善院玄以でしたね。

関ヶ原の戦いでは大坂城に居たが、内通するでもなく軍事行動もするわけでもなく、豊臣秀頼をただひたすら警護し中立を守っていました。この働きによって、家康より丹波亀山5万石を安堵され、初代藩主となります。
1602年に死去し、子の茂勝が跡を継ぎました。

増田長盛

秀吉が長浜城主時代から仕えていた長盛は、京の三条大橋や五条大橋の改修工事も行うなど土木中心の奉行として活躍しました。

関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いなどで活躍しますが、本戦は参加せずに大坂城の様子を家康に知らせており、この情報が勝敗を左右するほどだったようです。

西軍が負けると、出家して高野山に追放されます。
しかし、大坂の陣の際に嫡男が豊臣側に寝返ると、その責任をとり1615年に自害しています。享年71歳の事でした。

長束正家

1585年に秀吉に仕え主に財政面の奉行として活躍しました。算術にとても長けていたと言われています。

秀吉死後は、石田三成に付き伏見城攻めなどで活躍しています。関ヶ原本戦では、吉川広家と共に布陣していたが、東軍に寝返った吉川軍に妨害され動くことが出来ず、西軍が壊滅すると撤退をしています。
しかし、東軍の池田軍に捕えられ自害し39歳の若さでその生涯を終えました。

簡単ですが、五大老・五奉行のその後の人生について紹介しました。関ヶ原後の処遇は家康に対してどのような態度をとったかで違うようです。
結果として幕府成立後に残った大名は、前田・上杉・毛利・浅野が残り幕末まで続きました。
※前田玄以の藩は改易となっています。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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