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【関ヶ原の戦い】本戦の勝敗に影響を及ぼした!?各地で行われた関ケ原前哨戦。

歴ブロ歴史の探求者

徳川家康と石田三成の対立が深まり、政権の主導権をめぐり各大名達が東軍VS西軍に分かれ戦ったのが1600年に起こった関ヶ原の戦い。関ヶ原本戦の他に前哨戦が伏見城の戦いや第二次上田合戦などが各地で行われていました。

一般的には関ヶ原の本戦にスポットを当てがちですが、今回は各地で行われた関ケ原の戦いの前哨戦と呼ばれた戦いについて紹介します。これらの戦いの中には伊達政宗や黒田官兵衛、加藤清正と誰でも聞いたことがあるような武将たちが登場します。

各地で行われた関ヶ原前哨戦

各地で行われた関ヶ原の前哨戦の影響で、本戦で予定していた軍勢が両軍とも動員できなかったと言われています。

有名なところでは第二次上田合戦で、徳川秀忠が大軍を率いていなが真田昌幸が立て籠もる上田城の攻略で足止めをされ、東軍・38000の軍勢が関ヶ原の本戦に間に合わなかったとされています。

こうした各地の前哨戦が本戦の勝敗に大きく左右したとも言われ、もし東西が予定の軍勢を揃えていたら関ヶ原の戦いは1日で終わることは無く、激戦を繰り広げていた事だろうと考えます。

それでは、全部は紹介しきれませんが関ヶ原の前哨戦をいくつか紹介していきましょう。

北の関ヶ原・慶長出羽合戦

伊達政宗
伊達政宗

東北・出羽地方では、五大老の一角を担っていた西軍・上杉景勝と東軍・最上義光と伊達政宗が激突した北の関ヶ原『慶長出羽合戦』が行われてました。

秀吉死後に上杉氏と対立を強めていた家康は上杉討伐のために会津へ進軍していましたが、石田三成出陣の報を受けるとUターンして西に向かいました。当事者の上杉景勝は、本戦のため後顧の憂いをなくすために最上攻めを決行し戦いが始まります。

受ける最上義光は戦力差を補うために伊達政宗を頼り共闘。1か月に及ぶ激戦の間に本戦が始まり西軍が敗退した事で上杉軍が撤退し最上・伊達連合が勝利しました。

近畿・大津城の戦いと田辺城の戦い

大津城の戦い

大津城主・京極高次は西軍として北陸平定に従軍する予定でしたが、東軍に寝返り大津城に立て籠もります。大津城は交通の要所だったので、西軍は早急に対応するために毛利元康を大将として約15000の軍勢が大津城へ向かいました。
結果は西軍が勝利し大津城を開け渡すことになったのですが、その日が関ヶ原の戦い当日であったので西軍15000人の軍勢が本戦に間に合いませんでした。

田辺城の戦い

丹後(現京都府舞鶴)では、田辺城に籠城する東軍・細川幽斎(藤孝)と西軍の田辺城の戦いが行われていました。

西軍は機内掌握のために細川氏が治める田辺城を包囲。東軍・細川忠興が関ヶ原本戦でほとんどの兵を連れていたので、城には500人ほどしか兵が配置されていなかったそうです。それでも父・幽斎は籠城を決意し城を守り通しました。

落城かと思われましたが幽斎が和歌の達人で西軍諸侯にも多くの弟子がおり、城攻めが思っただてまさより進みませんでした。また、朝廷側にも弟子が多く天皇を巻き込んで講和が進められ城が明け渡されます。関ヶ原の戦いの2日前のことでした。

南の関ヶ原・石垣原の戦い

九州でも東西が激突した石垣原の戦いがありました。

豊後(現大分県)の東軍支配の杵築城をめぐる戦いで、西軍の大友義統が杵築城に侵攻する報告を受け、東軍の大名・黒田如水(官兵衛)が出陣し援軍に向かいます。両軍が石垣原で激突し百戦錬磨の官兵衛の巧みな采配によって東軍の大勝利となります。

その後、官兵衛は引き返さずに領土拡大に向けて豊後の西軍諸侯の攻め取りを開始。この進軍には、領土野心と言うより天下を目指した下準備だともいわれています。

さらに同時期に、熊本城の加藤清正が東軍として肥後の西軍諸侯を攻め取り活躍しました。

九州の西軍で最後まで頑張ったのが立花宗茂で辛くも攻勢を食い止めていましたが、関ヶ原本戦がすでに終わった事もあり、清正の説得を受けて南の関ケ原の戦いも終結します。

他にも四国では東軍で伊予の加藤嘉明や阿波の蜂須賀氏が西軍の猛攻をしのぎ、北陸の前田氏は西軍・丹羽攻めに時間がかかり本戦には参加できませんでした。
また、伊勢国の安濃津城では東軍が西軍を足止めしたおかげで、東軍が岐阜を抑えることが出来て勝敗に大きく影響したと言われています。

関ヶ原の戦いの後処理

徳川家康
徳川家康

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、諸大名たちに対する加増や減封、改易などの処分を取り仕切りました。まずは、五大老でも東軍に味方した前田利長は80万石から120万石に加増されています。

東北で活躍した最上義光は、その功績から出羽山形藩57万石まで加増され大藩の仲間入りを果たしました。一方で伊達政宗は家康から警戒されていた事から、微量の加増だった様です。

九州の黒田長政には筑前52万石を加藤清正には熊本52万石が与えられ、それぞれが初代藩主として江戸幕府の大名として残りました。

一方で徳川に対抗した五大老の毛利輝元や上杉景勝は100万石以上の領地から四分の一ほどまでに召し上げられます。そして、西軍の石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は改易のうえ斬首されました。

こうして、1603年に徳川家康は征夷大将軍に就任して江戸幕府を開くことになり、江戸城を拠点に全国の大名が藩を治める幕藩体制を敷き260年以上続くことになります。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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