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京都を追放された足利義昭は放浪の末にたどり着いた鞆の浦で幕府を開いていた。

歴ブロ歴史の探求者

1573年7月、室町幕府将軍・足利義昭は、織田信長によって京都を追放され、室町幕府が滅亡したとされています。

その後、追放された義昭は畿内を中心に流浪し、最終的には毛利氏の支配地域である備後国の鞆(とも)で再起をはかることに。この地は、かつて足利尊氏が新田義貞討伐の院宣を受けた地で、足利氏にとっては由緒正しい場所でした。

そこで、今回は足利義昭が追放された後の足取りを紹介していきます。

亡命暫定政府・鞆幕府の設立

義昭の流浪旅には、幕府の重臣たちも従っています。

将軍の共廻り達や大名たちの子弟達も含め100人以上の旅団でした。そして、各地を転々としていきますが、毛利氏の支援を取り付けて備後国の鞆の浦で暫定政府を作ります。

追放されはしましたが、将軍職と従三位権大納言の官位・官職は保ったままで、当時は一定の権威はあったようです。まだある将軍の特権をフルに使い、年貢なども定期的に獲得していました。

この臨時政府は、信長に対抗する大名からの援助もあり、財政的には安定していたとも言われ、規模の大小あれど幕府としての実態があったと言われています。

こうした足利義昭の亡命中の臨時政府機関を鞆幕府と呼んでいます。

信長包囲網を形成

義昭は以前にも武田信玄を通じて信長包囲網を形成しました。しかし、信玄が陣中で亡くなると包囲網が瓦解し、信長と対立したことによって義昭は京都を追放されます。

その後、義昭は信長討伐のために全国の大名に手紙攻勢を仕掛けます。当時はまだ足利将軍家を支持する武家も多く、この時の包囲網には、毛利氏を含め本願寺や上杉、宇喜多氏などが参加しました。

しかし、織田家の勢いは止められず、大坂の本願寺が敗れ、北陸は織田家の柴田勝家に、中国地方は羽柴秀吉によって包囲網は徐々に破られていきます。ところが、1582年に本能寺の変が起こり織田信長が討たれると、毛利氏と織田氏との決着が着かないまま、信長包囲網が終結したのでした。

将軍辞職と豊臣政権の御伽衆

信長死後は、柴田勝家と共に秀吉と対立していた義昭ですが、秀吉が関白に就任して九州平定を行うと、義昭は主に和平の使者として秀吉と連携を取っています。

この功績から義昭は秀吉より帰京が許され15年ぶりに京都へ帰り、秀吉に臣従しました。

そして、将軍職を朝廷に返上し、事実上幕府が消滅しました。

その後は、豊臣政権内で徳川家康や毛利輝元等と言った大大名達より上位の席次を与えられています。そして、秀吉の御伽衆として良き話し相手となっています。大河ドラマのように、酒をせびりに来ていたかは分かりません。

御伽衆(おとぎしゅう)とは?

ここで、御伽衆について紹介しましょう。

『君主の暇つぶしでおとぎ話でもしてくれるのだろうか?』と思うが、彼らは政治顧問でもあり、話し相手でもあり時には武芸指南もしてくれました。

その前身は、室町幕府の【御相伴衆(御しょうばん衆)】。

将軍の側近として話し相手だけではなく、一緒に会合やイベントに参加した名誉ある役職でした。そのため、相当な家格が必要で【管領】を務める一族や有力守護大名しか就くことが出来ませんでした。

応仁の乱以降は、将軍権威の失墜により御相伴衆の地位も低下しますが、それでも名誉ある職として今川氏真や北条氏康や毛利元就などの有力大名がその職に就いています。

この頃は、各大名家が領国経営していたので大名自らが御相伴衆を用いていました。

基本的には相談役のような役回りが多く、隠居した元重臣が再雇用されたり、剃髪した元有力武将など訳アリ僧侶がその役に付いています。晩年、家康のそばにいた南光坊天海は、御伽衆と言及はないが似たような存在だったと思います。

役職として機能した御相伴衆は、内閣官房参与に近い性質を持つようになり、安土桃山時代には御伽衆へと変化して行くのでした。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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