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【徳川家康の女性関係】家康の正室・側室事情と御落胤と噂の人物とは?

歴ブロ歴史の探求者

争いが絶えなかった戦国時代は自分も家族もいつ死ぬかわかりません。

明治32年の人口動態調査で乳児(生後1歳未満)死亡率が約15%となっており、それを考えると江戸時代や戦国時代ではもっと低いと想像できます。そのため、戦国大名たちはお家存続の為に多くの子供を残そうとしていました。

江戸幕府を開いた徳川家康も例外ではなく、側室との間に生まれた子供たちが幕府の未来を担う事になります。二代将軍・秀忠を筆頭に尾張・紀伊・水戸の御三家の藩祖を生んだのも家康の側室達でした。

三英傑の正室・側室事情

諸説ありますが、家康は生涯に正室・側室含め21人いたと言われています。

秀吉は分かっているだけで14人、織田信長が正室含め12人と比較すると家康の人数が多いことがわかります。ただし、真偽不明ながら一部で秀吉は数百人の側室がいたとも言われているようです。

家康の正室は、瀬名(築山殿)と後妻に豊臣秀吉の妹・朝日姫がいました。正室の子は築山殿との間に信康と亀姫しかおらず、朝日姫との間にはいませんでした。

後に正室の子・信康が切腹した事を考えると、残り19人の側室が徳川家の子孫たちを生んだことになります。

徳川家康の女性関係と色恋事情

どうする家康でもたびたびお手付きをしている徳川家康。

正室と側室を含め11男5女と計16人の子宝に恵まれました。

女性好きで知られている秀吉は身分の高い女性を好み、まさに漁るように女性を迎え入れたようですが、家康は身分にこだわらず身体が健康な経産婦を選ぶ傾向もあったようです。実際に家康に見染められた側室たちの中には、お夏の80歳、阿茶の局は83歳、結城秀康の母・於万の方は72歳まで生きました。

ところが、年を重ね、跡取りの見通しがつき始めると、積極的に自分好みの若い子を選ぶようになりました。59歳の時には、当時15歳だった姫を側室に迎えています。

瀬名(築山殿)の死後に朝日姫を正室に迎える

最初の正室・瀬名(築山殿)の死後、しばらくは正室を迎えていなかった家康ですが、小牧・長久手の和睦後に、秀吉の妹・朝日姫が正室に迎えられました。これには、秀吉による家康の懐柔策の側面が強いので、夫婦関係というより人質と考えた方がいいかもしれません。

しかも、家康・朝日ともに40代だったのでまさに形だけの婚姻で子どもはいませんでした。

家康の側に仕えた才女・阿茶局

どうする家康でもいつの間にか軍師的な役割で阿茶局が登場していました。1579年に家康に応じて側室をなっていることから、正室の朝日との面識はあると思います。

阿茶局は才知に長けた女性と言われています。

そのため、側室ながら家康の側で仕え、小牧・長久手の戦いにも随行していました。しかし、身重で同行したことで流産してしまい、それ以降子どもが産めなくなってしまいます。
通常、側室が子どもを産めなくなると暇を与えられるのですが、家康は阿茶を遠ざけることなく側に置き、生母をなくした秀忠兄弟の養育も任せました。

阿茶局は大坂の陣でとても重要な役割を果たします。

大坂冬の陣で家康は豊臣家と和睦を画策しますが難航していました。その和睦交渉を見事にこなしたのが阿茶でした。多くの側室の中で、阿茶のような扱いを受けるのは特別で、家康は基本的に女性に対してはドライだったと言われています。

落胤と噂される人物

家康の正室と側室合わせて21人と書きましたがこれはあくまでも公式記録での事。

子が生まれなくとも手を付けていた女性は多く、中にはひそかに子を宿し、落胤(隠し子)と噂される人物もいるのが徳川家康です。

少なくても10人近い落胤がいたとされ、中には将軍や有力大名や幕府の重臣だったり様々います。ここでは、その落胤とされる人物を何人か紹介しますが話半分で見てください。

三代将軍・徳川家光

徳川家光
徳川家光

二代目将軍・秀忠とお江の間に生まれたとされるのが家光。

家光が持っていたお守りの中に『父である家康のようになりたい』と書いていあり、関連史料が見つかっている事から『家光と春日局との間に生まれた子供では?』と言われてます。

豊臣秀頼

豊臣秀吉が高齢だった事で、いろんな人の落胤説があるのが豊臣秀頼です。

大野治長とも言われていますが、徳川家康や石田三成と言った名前も挙がっています。

土井利勝

二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の治世で側近として権勢を振るったのが土井利勝です。

徳川家公式記録書【徳川実記】にも落胤説の記載があるようです。

どんなに強大な勢力を作り上げても自身が死んでしまえば、すぐに主家滅亡の危機になると今川・織田・豊臣家を見て徳川家康は学んでいました。そこで学んだのが、身内をたくさん作ることにあったのだと思います。

それは徳川家存続のための重要な戦略でした。

江戸幕府設立後、家康のたくさんの男子たちは親藩大名として徳川一門の層の厚さを作り上げることに成功しています。

余談ですが、家康の10男・頼宣と11男・頼房を生んだお万の方は【鎌倉殿の13人】で登場した三浦義村の子孫で、8代将軍・吉宗から15代将軍・慶喜までは、お万の方の系列から輩出されいることから義村の子孫ということになります。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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