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武田家最強と言われた信玄時代を支えていた【武田四天王】

歴ブロ歴史の探求者

徳川四天王である酒井忠次・榊原康政・本多忠勝・井伊直政は有名ですが、武田信玄にも武田四天王と呼ばれる4人の重臣たちがいました。馬場信春・内藤昌豊・山県昌景・高坂昌信です。

武田家には四天王の他に武田二十四神将と呼ばれるメンバーもいますが、全員紹介しきれないので、今回は武田四天王について紹介します。

元祖【赤備え】軍団長・山県昌景

大河ドラマ『どうする家康』で長篠の戦いで見事に散ったのが山県昌景。体格が小柄ながら、戦場では一番乗りの常連でした。武勇に優れたイメージですが、政治面でも実力を発揮して活躍をします。

信玄暗殺計画事件(武田義信事件)では、兄・飯富虎昌が実行犯として捕えられますが、信玄に密告したのが弟の昌景でした。結果的に兄を裏切った形となってしまいましたが、実は計画を武田義信から相談を受けて、信玄に報告をしたのが真相のようです。

この事件を受けて謀反者の兄と同じ姓を名乗るのは忍びないと、信玄の提案で【飯富】から【山県】へと改名。同時に兄が率いていた『赤備え』を継承しています。

山県昌景は史実でも長篠の戦いでドラマ同様に見事な戦死を遂げています。

高坂昌信は女性と信玄からも求愛!?

高坂昌信は農民の子として産まれますが、身寄りが無くなった所を武田信玄に仕えることになります。

伝令や使者などの経験を経て、その働きぶりを評価され出世していきました。

そして、いつしか信玄から愛も寄せられることになります。この時代、男性同士の恋愛は珍しい事ではありませんでした。信玄は昌信への熱い思いを直筆で手紙にして渡しています。女性からもモテモテで逃げていた事から『逃げの弾正』のあだ名まで付けられました。私は戦場で逃げるのがうまいことから付けられたのだと思っていました。

武田勝頼の時代になると中枢から遠ざけられるようになり、長篠の戦いでは留守居をしていたことから四天王で唯一生き残り、52歳でその生涯を閉じています。

武田四天王一の智将・内藤昌豊

信玄の父・信虎時代からの家臣の家系でしたが、昌豊の父が処刑されたのを機に兄と武田家を離れ各地を転々としていました。信玄が信虎を追放すると昌豊兄弟を呼び寄せ武田家に復帰させます。

本家は兄が継ぐと、昌豊は【内藤】と名乗り家中で知将ぶりを発揮します。

また、無欲な人で信玄から感状をもらっても『個人の手柄にこだわるものではない』と言っていたとか。そんな人柄から、山県昌景からも【副将の器】とたたえられています。

長篠の戦いに参戦しており、織田連合軍の三番目の馬防柵を唯一突破したのも昌豊でした。しかし、体中に矢や竹やりが刺さった状態で戦死し、武蔵坊弁慶も真っ青な最期だったと言われています。

鬼人と呼ばれた馬場信春

先代の信虎時代から仕えていたのが馬場信春で、信玄が当主になると再び忠誠を誓い仕えました。

駿河攻めを皮切りに数々の戦に参戦。三方ヶ原の戦いでは、浜松城下まで徳川軍を追い詰める戦功を挙げています。しかし、勝頼が武田家を継ぐと中枢から遠ざけられてしまいます。それでも、長篠の戦いで戦死するまで傷一つ負わずに戦場を駆け回り『不死身の鬼美濃』と呼ばれていました。

山県昌景、高坂昌信、内藤昌豊、馬場信春の4人は、有能ぞろいの武田家臣団の中でも特に優れた人物たちでした。彼らは決して名家の出身ではなく、その才能を見込んで信玄自ら見出して重臣となりました。上杉謙信との川中島の戦いや信濃侵攻、徳川家康との戦いで最強と言わしめた武田軍団は間違いなく彼らに支えられ、特に山県昌景の赤備えは敵を震え上がらせました。

しかし、勝頼時代になると中枢から遠ざけられ、長篠の戦い後には4人中3人が戦死。その後は坂を転げ落ちるように崩壊し、武田家は滅亡します。残った高坂昌信は1578年に病死しているので、武田家の滅亡を見なかったのはせめての救いかもしれません。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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