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駅前に「越後鉄道の父」の胸像! 越後線 小島谷駅(新潟県長岡市・旧:和島村)

清水要鉄道ライター

柏崎駅で信越本線から分岐して、出雲崎、吉田、内野を経て新潟で再び信越本線と合流する越後線。新潟寄りは列車の本数も多く新潟近郊の通勤路線という印象だが、柏崎~吉田間は列車の本数も少なくローカル線然としている。そんなローカル線区間にある途中駅の一つが小島谷(おじまや)駅だ。

駅舎
駅舎

小島谷駅は大正2(1913)年4月30日に越後鉄道の出雲崎~地蔵堂(現:分水)間が延伸した際に開業した。当時の駅名は「与板(よいた)」で、塩入峠を越えて5キロ離れた隣町・三島郡与板町(現:長岡市)に由来していた。駅の所在地は三島郡島田村で、明治34(1901)年11月1日の合併までは三島郡小島谷村だったところだ。与板駅はわずか2年後の大正4(1915)年10月1日に旧村名の「小島谷」に改称された。その6日後の10月7日には与板町に長岡鉄道の「与板」駅が開業しており、そちらに駅名を譲った形だ。ちなみに与板駅はのちの合併で越後交通長岡線の駅となり、昭和50(1975)年4月1日に廃止されている。

発車する吉田方面行き
発車する吉田方面行き

越後鉄道は昭和2(1927)年10月1日に国有化され、国鉄越後線となった。越後線と吉田駅で交差する弥彦線もまた越後鉄道の手によって建設された路線だ。越後鉄道の国有化にあたっては疑獄事件が発生しており、越後鉄道常務で衆議院議員の久須美東馬、鉄道省政務次官・佐竹三吾が逮捕されて有罪判決を受けている。この事件では濱口雄幸内閣の文部大臣・小橋一太も収賄容疑に問われたが、証拠不十分で無罪となり、後に第16代東京市長となった。この事件とその直前に起きた「五私鉄疑獄」は政党政治への国民の不信感を高め、軍部が台頭する原因となったとも言われている。

久須美秀三郎
久須美秀三郎

小島谷駅の駅前には越後鉄道の創業者・久須美秀三郎の胸像が建てられている。久須美は幕末の嘉永3(1850)年に小島谷村の素封家に生まれ、油田の開発などを通して新潟県の産業の振興に生涯を捧げた。渋沢栄一の勧めにより京釜鉄道(ソウルと釜山を結ぶ鉄道)の発起人の一人になるなど、新潟の外でも活躍を見せたという。彼は柏崎と新潟を結ぶ鉄道建設に私財を投じ、明治44(1911)年3月に越後鉄道を設立して初代社長となっている。いわば「越後線・弥彦線の生みの親」だ。駅近くには久須美家の邸宅「住雲園」が残されている。久須美家は仇討ちで有名な曽我兄弟の兄・曽我祐成の末裔との説があり、室町時代の延徳年間(1489~1492)に小島谷に居を定めた。秀三郎は祐成から数えて27代目に当たる。秀三郎の長男・東馬は父の跡を継いで越後鉄道を発展されたが、その経営は厳しく、鉄道国有化を求めていたが、なかなか実現されなかった。越後鉄道は昭和2(1927)年10月1日にようやく国有化されるが、その裏にあった贈収賄が発覚し、これが越後鉄道疑獄事件となる。東馬はこの事件がきっかけで破産し、屋敷も人手に渡った。

ホーム
ホーム

話を小島谷駅に戻そう。駅のホームは相対式2面2線。6時台と7時台、16時台に列車の行き違いが行われる。柏崎~吉田間には列車が行き違いできる駅が5駅しかないが、朝夕を除けば本数が少なく、4時間近く列車が来ない時間帯があることを考えればこれで充分なのだろう。

駅舎と駅前
駅舎と駅前

駅舎は昭和46(1971)年9月に建てられた鉄筋コンクリート造平屋建て。周辺駅と比べると大きな駅舎だが、平成16(2004)年11月30日に無人化されて寂しげな雰囲気が漂っている。駅前のロータリーに植え込みがあり、その中心で秀三郎の胸像が今日も駅舎を見つめているが、彼の目に今の越後線はどう映っているのだろうか。

鉄道ライター

駅に降りることが好きな「降り鉄」で、全駅訪問目指して全国の駅を巡る日々。

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