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家族も無事だった自分が…津波を語り継ぐ防災ガイド 恐怖の海が「癒しの海」と思えるまで #知り続ける

佐々木航弥映画監督・映像ディレクター

岩手県宮古市田老。2011年3月11日、国内外から研究者らが視察に来る高さ10mの巨大防潮堤を備えたこの町を、大津波が襲った。津波は防潮堤をやすやすと越え、181人の命を奪った。
その町で、被災の記録や津波の恐ろしさ後世に伝える「学ぶ防災」のガイドを務めているのが、宮古市生まれの佐々木純子さん(59)。佐々木さんはきれいな海が自慢の宮古が大好きだった。しかし、震災直後は海を直視することができなかったという。「最初の頃は思い出すし、防潮堤から見える海が憎らしくもあり、ガイドをやっていけないとも思った」。ただ、これまでのガイドの活動を通じ、いまではきれいな故郷の海の素晴らしさを多くの人に伝えたいと思うようになったという。海への思いは、どう変わっていったのか。

●3度の大津波に襲われた田老地区


太平洋に面した宮古市田老地区は、沖合で親潮と黒潮が交わる好漁場であると同時に、明治と昭和に2度の大津波被害を受け、「万里の長城」と呼ばれる巨大防潮堤を築いた町として全国に知られていた。総延長2,433メートル、高さ10メートルの長大な防潮堤は町全体を取り囲み、内外から多くの視察が訪れていた。だが、東日本大震災の大津波は、その防潮堤を越え、町を襲った。人口約4400人の町で、181人が犠牲になった。

その田老でガイド活動をしているのは、宮古観光協会の傘下にある「学ぶ防災」という小さな団体だ。スタッフは佐々木さんを含め5人。田老を訪れる客に、津波に襲われたままの姿で残っている「たろう観光ホテル」や増強された新たな防潮堤など、津波で姿を変えてしまった町を案内している。新型コロナウイルスの流行前は、県内外から年間2万人の客が「学ぶ防災」のガイドを利用したが、コロナ禍で訪問者数はおよそ6割減。2021年12月の行動制限の解除時に団体客などで巻き返したものの、22年2月時点で2019年度の訪問者数の半分にも達していない。事業継続には苦しい状況だが、佐々木さんは「私たちのように後世に伝える人がいないと、災害でかつてのような犠牲者を出してしまう。だからこそ、防災の心得を忘れないためにも震災の恐ろしさを伝えていかなければならない」と話す。

●防潮堤への「過信」?

東日本大震災後、田老には新たに高さ14mを超える防潮堤が完成した。これを佐々木さんはどう受け止めているのか。

「この防潮堤が新たにできたことで、町から海が見えなくなってしまった。実は、東日本大震災の際には防潮堤より海側に住む人たちは、海の様子が見えたことでいち早く避難することができた。逆に防潮堤の内側に住む人たちは避難が遅れ、多くの人が犠牲になってしまった。もしかすると、防潮堤への過信があったのかもしれない」

東京などから来る客には、佐々木さんはこう説明する。田老の住民に、同じ轍を踏んでほしくないという思いがあるからだ。津波の際にはいち早く近場の高台に避難することが大事だが、そのためにも海の様子が見えた方が住民の危機意識を高めることができるのではないかと佐々木さんは考えている。

「何より田老の人は、海が見えた方がよいという方の方が多いと思う。私たちは、ずっと海と共存してきたのだから」

●職場が被災し解雇、ガイドの道へ

佐々木さんは震災前、宮古市内のリース会社に勤めていた。客の自宅を回り、掃除用品の交換をするのが主な仕事だ。人と関わることが好きだという佐々木さんは、「友達のように親しく接してくれるお客様が大好きだった」という。ただ、そうした日常は、大震災で突然奪われた。津波で職場が被災。経営が難しくなり、佐々木さんは解雇された。

「あの状況なら仕方ないと思った。13年間たいへんお世話になった。亡くなられたお客様や、ご家族の行方が分からないお客様などもいたので、その方たちに最後まで一緒にいてあげられないことだけが心残りだった」

失業から1年ほど経ったとき、宮古観光協会に勤める知人から「田老で津波の恐ろしさを伝えるガイドをする事業が始まるから、是非ガイドになってほしい」と声をかけられた。人当たりのいい明るい性格を見込まれてのことだった。当時は人と直接関わる仕事を探していたが、いい就職先が見つかっていなかった。「家も家族も無事だった自分が、命の大切さを説くようなガイドをしてよいものなのか」と悩んだが、誘いを受けることにした。

「せっかく助かった命だし、亡くなっていった方々の無念の思いもある。そうした方々のためにも自分でいいならと引き受けた」

こうして「学ぶ防災」の1人目のガイドが誕生した。

田老にある高校を卒業したが、宮古の中心市街地にある自宅は田老から離れており「地元」と呼べる場所ではなかった。だからこそ、誰よりも田老に詳しくなろうと田老の歴史を学び、地元住民の震災体験の聞き取りなども積極的に行った。

●「学ぶ防災」の10年とこれから

そうして始まった「学ぶ防災」のガイド活動だが、当初は地元住民からの反感などもあった。震災直後にこうした活動をすることを快く思わない地元住民もいたからだ。さらに、佐々木さんは宮古市のなかでも市街地出身。「田老が地元じゃないのに何がわかるんだ」と、ガイド中に厳しい言葉を浴びせられたこともあった。それでも犠牲者のため、同じ歴史をまた繰り返さないために、佐々木さんはガイドを続けた。気づけば、10年もの歳月が経っていた。

佐々木さんは、自分が命の尊さを説くガイドをすることへの葛藤があるという。それでもガイドした客からもらった感謝の言葉や手紙を見返しては、自分を奮い立たせている。

「私はよく『語り部』などと言われるがそうではない。あくまで『ガイド』。田老に住む方にお聞きした話や、田老の歴史から学び、それを伝えているだけ。こうして、少しでも多くの人に津波の恐怖を伝え、防災意識を高めてもらいたい。田老から多くを学んでほしい」

「学ぶ防災」では、宮古市が新たに始める電動自転車のレンタル事業を利用したサイクリングツアーを計画中だ。試しに自転車で客を案内した佐々木さんは、「今までは歩きでのガイドがほとんどだったので、近くの防潮堤とたろう観光ホテルしか巡れなかった。自転車だともう少し遠くまで行ける。何より、自転車で海の香りや田老の雰囲気を感じてもらえれば」と期待する。サイクリングツアーは暖かくなる4月頃から本格的に始動する予定だという。

これからはどのようなガイドをしていきたいのですかと聞くと、「震災の恐怖や防災を伝えるのは大前提として」と前置きした上で、佐々木さんはこう答えてくれた。

「震災直後は海が怖くて直視できなかった。でも今はガイドをしながら何度も海を見ていたら、だんだんとやっぱりきれいな海、癒しの海だなと思えるようになってきた。故郷の宮古の海はきれいでよい」

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記事・撮影・編集・監督
佐々木航弥

映画監督・映像ディレクター

1992年生まれ。岩手県宮古市出身。大阪芸術大学卒業。AOI biotope所属。大学時に映画監督の原一男に師事。撮影・編集・監督をした卒業制作のドキュメンタリー映画「ヘイトスピーチ」(2015年)が座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルのコンペティションで入賞。その後、劇場公開される。その他、撮影・編集・監督をしたドキュメンタリー映画「僕とケアニンとおばあちゃんたちと。」(2019年)「僕とケアニンと島のおばあちゃんたちと。」(2022年)を劇場公開している。

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