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60年代のアメリカが、今輝いて見えるのはなぜか?

品川亮映像制作・文筆・翻訳

クエンティン・タランティーノによる『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(日本公開:2019年8月30日)のラストには、最初、だいぶ腹が立った。紋切り型をさらに単純化し、いろんなものをなかったことにしていたからだ。
それでも少し時間が経つと、あれもまた、タランティーノの中に“60年代のファンタジー”が深く根を張っている証左に違いないと感じ始めた。あんなふうにカッコつけなくてもいいのに、とは思うけど。

1960年代には、良いことも悪いことも起こっていた。
どんな時代にもその両面があるに決まっているのだが、1960年代は特に両極端だったというイメージがある。

それなのに、「では、60年代の良い出来事って?」と尋ねられてすぐ思い浮かぶのは、「月面着陸」(1969年7月)、60年代を象徴する野外フェス「ウッドストック・フェスティヴァル」(1969年8月)、社会の変革を求めてフランス全土の路上に人々が溢れた「五月革命」(1968年)くらいだったりする。

それ以上に強烈な印象を残しているのは、ヒッピー的な姿形や生き方をしていた(と思われていた)チャールズ・マンソン率いるマンソン・ファミリーのメンバーが惨殺事件を起こした「シャロン・テイト殺害事件」(1969年8月)、フリー・コンサートで演奏するローリング・ストーンズの目の前で観客が殺された「オルタモントの悲劇」(1969年12月)といった、血塗られた出来事ばかりだ。

もちろんカルチャー分野では、とにかく豊かな時代だったとは言える。
ロック文脈では、神話的な名前の多くがこの時代の人たちだ。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、グレイトフル・デッド、ジミ・ヘンドリックスなどなど、誰もが知るアーティストのほとんどがここに含まれる。
映画においては、60年代末から70年代半ばはいわゆる「アメリカン・ニュー・シネマ」の時代だった。『イージー・ライダー』、『真夜中のカウボーイ』、『明日に向かって撃て』などなど。だが、この時代の作品タイトルを並べて眺めなおしてみると、好きな作品もあればさほどでもない作品もあるし、古びてしまった作品もある。

それでも今、60年代が輝いて見えるのはなぜなのだろうか。
人種差別、宗教、フェミニズム、資本主義以外の選択肢の模索などなど、60年代にアツかったテーマはいまでも古びていないどころか、ますます有効性を増している。世界のどこを見渡しても、「60年代に存在した問題はすべて解決済み」と言える場所はない。“より良い社会”を考える時に避けて通れない議論のほとんどすべてが、すでに60年代には存在していたということになる。
「そのことに今さらながら気づいたから、60年代に興味を持っているのだ」そう言いきれるなら格好はつく。だが、核はもっと単純であることに気づいた。幼稚と言われても仕方がないくらいに。

要するに、「60年代と現在の違いは何なのだろう?」ということなのだ。
60年代にはたぶん、“理想”のようなものが“実現できるかもしれないもの”として存在していた。“より良い社会”のあり方を考えるとき、人々はそれを、“実現できるかもしれないもの”として念頭に置いていたに違いないのだ。だから、「社会はこれからどんどん良くなっていく」と感じられた。今とは真逆だ。
そういう意味で、60年代を、「扉が半分開いていた時代」ととらえた。
そこから、「69: A half-open door(半開きの扉)」というタイトルにつながった。

そういうわけで、“60年代の全貌”には最初から興味がない。
そもそもある年代の全貌をとらえることなど、できるわけがない。
あの時代を生きた“大人”たち、その後いろいろあったかもしれないけど今は信用したいと感じさせる“大人”たちに直接会い、「半開きの扉」の向こう側の景色がどう見えていたのか、もしくは、そんな扉が存在する時代に生きるというのはどういう感じだったのか、話を聞きたいという欲望だけに衝き動かされた。ここでお見せしたのはその一部分だ。
“可能性に満ちあふれたファンタジー”としての60年代を、今この時代に生かすためにはそうするほかないと感じている。だからこそ、60年代の“ダーク・サイド”にも同時に耳を傾ける必要がある。
そしていうまでもなく、“ファンタジー”とは“非現実世界”という意味ではない。“存在するかもしれないが、今はまだここにない世界”を指している。

ところで、この記事のタイトルは「60年代のアメリカが、今輝いて見えるのはなぜか?」となっている。
もちろん、“60年代”はアメリカだけに起こったことではない。
だが、第二次世界大戦後、世界の秩序を作り上げたのはアメリカを中心とした国々だった。その中で“より良い社会”を求めたのが“60年代”だったとすれば、“60年代”の中心地がアメリカだったと考えても大きな誤りではないだろう。だから「60年代のアメリカ」なのだ
ただし、ここでいう「アメリカ」とは、国家としての「アメリカ合衆国」と同義語ではない。ファンタジーとしての、あるいは可能性としての“アメリカ”ということになる。

クレジット

出演 ジャック・ケッチャム スティーヴ・シャピロ 宮内勝典 スティーヴ・エリクソン

ナレーション 木村龍
撮影 小笠原学 品川亮
監督・編集 品川亮

映像制作・文筆・翻訳

1970年、東京生まれ。幼年期をリマ(ペルー)で過ごす。映像作品には、『H.P.ラヴクラフトのダニッチ・ホラーその他の物語』(監督・脚本・絵コンテ/東映アニメ)、『SECTION 1-2-3』(監督・脚本/アサヒ・アート・フェスティバル2007参加作品)などがある。著書『〈帰国子女〉という日本人』(彩流社)、共編著『00年代+の映画』(河出書房新社)。またアンソロジー『絶望図書館』、『絶望書店』、『トラウマ文学館』では、英米文学短編の翻訳を担当。月刊誌『STUDIO VOICE』元編集長。