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「大川小学校」の訴訟に挑んだ2人の弁護士――判決後も原告遺族と向き合う理由 【#あれから私は

寺田和弘ドキュメンタリー映画監督

「先生がいなければ、孫は死ななかったのしゃ」。亡くなった児童の祖母はそうつぶやいた。東日本大震災の津波に襲われた、宮城県石巻市立大川小学校(2018年2月に閉校)。児童70人と教員10人が命を落とし、今も4人の児童が行方不明だ。宮城県と石巻市を相手取り、学校の責任を問う裁判が起こされ、2019年10月10日、原告ら遺族の勝訴が確定した。

「勝てない」と言われる国家賠償訴訟。児童23人の19家族とともに挑んだのは、2人の弁護士だった。通常こうした大事件は、多くの弁護士が参加して弁護団を形成するが、大川小裁判は、最初から最後まで2人だけで担当した。裁判を終えた今も、彼らは原告遺族と向き合い続けている。その思いはどこにあるのか。2人の弁護士と大川小学校を訪ねた。

●学校管理下で起きた、最悪の大惨事

大川小学校は今、震災遺構としての整備が進められ、来月にも開館する予定だ。校舎は修復せず、現状のまま残す。学校に隣接するかつての住宅地で、避難途中の児童の多くが津波に襲われた。その一部を植林し、「鎮魂の森」にする。校舎の周りには芝生を敷き、「追悼の広場」や「想起の広場」をつくり、施設の入り口は桜並木にする計画だ。

ここを訪ねたのは、吉岡和弘弁護士と齋藤雅弘弁護士。大川小国賠訴訟の原告遺族の代理人弁護士だ。吉岡は現地に着くなり、「ダメだな、これでは」とつぶやいた。何がダメなのかと問いかけると「(きれいに整備されていて)震災当時の状況がもう再現できなくなっている」と答えた。

今進められている震災遺構整備は、原告遺族が望んだものとは全く違う形になっている。まず校舎。石巻市は「修復せず現状のまま残す」としているが、放置すれば、むき出しのコンクリートが朽ちていってしまうことは明らかだ。原告遺族は、コーティング加工などをして、現状のままの状態を保存することを希望している。また、新設される管理棟で「大川小学校周辺のジオラマ」や「校舎内の備品」などの展示が予定されているが、原告遺族は、子どもたちの遺品や裁判の記録を展示してほしいと願っている。

■瓦礫の中に埋もれている子どもを探す

仙台に弁護士事務所を構える吉岡の元に大川小学校の3人の遺族が訪れたのは、2011年12月のことだった。その時の様子を吉岡は鮮明に記憶している。

「お子さんを亡くした親御さんではあるんだけれど、非常に冷静沈着に話される姿がとても立派だった。特に、震災直後、自ら子どもたちを探したという話が心に突き刺さりました。『自衛隊も警察も消防も来てくれない。瓦礫の中に埋まっている子どもを素手に近い状態で探し出していく。でも学校関係者は誰も手伝ってくれない』と」

学校の非情さや問題を聞かされた吉岡だったが、すぐに引き受けるとは言えず、「まずは現場を見に行かなければ、なんとも言えない」と答えた。

「大川小は海から直線距離で3.7キロの地区にあって、その中で児童が津波に飲まれていくわけですけど、それが一体、誰の責任だと言えるのか。法律論的にはなかなか難しい問題で、できれば僕じゃない誰か他の弁護士のところへ相談に行ってほしかった」

吉岡は、当時の本音をそう吐露する。

■現場を見て“天災”から“人災”に変わる

2011年3月11日、午後2時46分。強い揺れが約3分間、続いた。2時49分、全校児童が校庭に避難。「ここにいたらみんな死んでしまう」「裏山に逃げよう」と訴えた児童もいたが、そのまま午後3時36分まで約50分間、校庭で待機を続けた。ようやく移動を開始するものの、向かったのでは裏山ではなく、川のたもとの高台だった。そして1分後、津波が学校に到達。児童が移動した距離は、先頭の子でもわずか150メートルほどだった。

吉岡が遺族から「まず見てもらいたい」と言われたのが、校庭に隣接する裏山だった。児童たちがシイタケ栽培の体験学習もしてきたところだ。そこから少しのぼると、土砂崩れを防ぐためにコンクリートが整備され、避難できるところがある。ここまで上がれば、100%助かったのだ。

吉岡はこの場所に佇んで、亡くなった児童の祖母がつぶやいた一言を思い出す。

「先生がいなければ孫が死ななかったのしゃ」

児童たちは校庭に待機していたのではなく、縛り付けられていた。これは「天災ではなく人災だ」と確信する。依頼を引き受けることを決意した。

■遺族が「わが子の“代理人弁護士”」となって

最大の問題は、津波ですべての証拠が流されていたことだった。目撃証言を探そうにも、どこに誰が避難しているか分からない。そのため吉岡は遺族にこう言った。

「弁護士任せにせず、皆さんがわが子の代理人弁護士になったつもりで自ら真相を追及すべきだ。それが津波で亡くなった子どもたちに対する親の責任ではないか」

当日何が起き、何があったのかを市側から明らかにさせる必要がある。そのためには時間的にも手続面でも制約の多い訴訟ではなく、市に遺族説明会を再開させ、そこで事実を明らかにしたほうがいいと吉岡は勧めた。

その結果、8回の遺族説明会(計10回)が追加開催された。遺族はそのたび、子どもの代理人となって事実を質し、得られた回答を分析・整理し、次回には何を質問するかを皆で検討した。そうして、証拠となる言質を集めた。

■自然災害で組織的過失を初めて認めた、画期的判決

しかし、遺族が望む事実関係の解明はなされないまま、説明会は打ち切られた。文部科学省の仲介で、石巻市は大川小の事故検証委員会を立ち上げて検証に乗り出したものの、これもまた遺族が望む結果とはほど遠いものであった。

約1年間という時間と5700万円もの経費を費やしながら、遺族が最も知りたい「事実の解明」を途中で放棄。表面的な考察に終始し、検証とはいえない内容だった。そして「事実を解明できなくても提言はできる」と、いつのまにか方向転換した。提言の内容は、防災マニュアルの見直しや研修の充実など、大川小の事故の経験が特に生かされていないものだった。

「あの日、何があったのか、真実を知りたい」と児童23人の19家族が訴訟に踏み切る決意を固める。通常、こうした大事件では大人数の弁護団を結成するが、吉岡が声をかけたのは、地元ではなく東京に事務所を構える齋藤雅弘弁護士だけだった。2人は司法修習の同期で、弁護士になってからは、豊田商事事件や商品先物取引の被害救済にともに携わった“戦友”だ。 弁護士が多くなれば担当を分担できるが、意思の統一などに時間がかかる。何より、「親が子どもの代理人になって闘う」という位置付けの裁判では、弁護士は多くなくてもいい。吉岡は、問題意識を共有できる齋藤と2人だけで挑んだほうがいいと考えた。

戦略家である吉岡に対し、齋藤は理論家だ。難しい国賠訴訟に挑むためには、どうしても齋藤の知見が必要で、吉岡は半年以上に渡り、口説き続けた。そして、吉岡に連れられて現場を訪れた齋藤は、吉岡と全く同じ思いを持つ。

「なんでこの裏山に逃げなかったんだ」

吉岡と齋藤は2人で、遺族が集めた証拠を一つひとつ検討しながら、3年の時効が迫るなか、訴状を書き上げた。2014年3月10日、仙台地裁に石巻市と宮城県を相手取り、国賠訴訟を提起した。

仙台地裁は、「津波到達7分前には大川小への津波来襲の予見が可能だった」とし、裏山へ避難させる義務を怠ったとして現場の過失を認めた。一方で、危機管理マニュアル等の整備は争点にされず、学校設置者の責任には踏み込まなかった。

しかし仙台高裁は、平時における学校の安全確保義務違反を認定し、組織的過失を初めて認めた。最高裁も県や市の上告を認めず、2019年10月、判決は確定した。

■大川小裁判の判決を、命を守るための取り組みに生かす

裁判が終わった今も、2人の弁護士は遺族と向き合い続けている。裁判で果たしえなかった、遺族が求める「真相の究明」や「行方不明の子どもの捜索」を追い続けるためだ。また、大川小裁判で得た判決を、命を守るための取り組みに生かさなければ意味がないと考えている。

新型コロナの影響で延期されていた判決報告会が先月21日、仙台の弁護士会館で行われた。東京大学大学院の米村滋人教授は、事前防災における過失を認めたことなど、「従来の津波訴訟にはなかった極めて重要な判決」と評価した。そのうえで「この判決がなければ、東日本大震災は何も生み出さなかったことになる。この判決は大川小の子どもを救っただけでなく、1万7000人あまりのすべての犠牲者を救った」と述べた。

「平時における学校の安全確保義務違反を認定し、組織的過失を初めて認めた」仙台高裁判決により、学校や組織における事前防災の必要性が明示された。この判決を生かすため、新たな犠牲者を防ぐため、私たちもこの記憶をつなぎ、行動する必要があるのではないだろうか。

クレジット

取材・撮影・編集 寺田和弘(パオネットワーク)

ドキュメンタリー映画監督

1999年から2010年までテレビ朝日「サンデープロジェクト」特集班専属ディレクター。シリーズ企画「言論は大丈夫か」を担当(足利事件などの再審事件や匿名実名報道など)。またDNA鑑定によるえん罪事件やアイヌ‟先住権“問題などを継続取材するなど、主に社会問題を中心に取材を行う。ドキュメンタリー映画「生きる」大川小学校津波裁判を闘った人たちを制作。2023年2月、全国順次公開予定。

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