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攻めの廃線で消えた「石勝線夕張支線」の今

鉄道乗蔵鉄道ライター

 2022年9月某日、筆者は、現北海道知事の鈴木直道氏が夕張市長時代に掲げた「攻めの廃線」により、2019年3月31日限りで廃止された石勝線夕張支線の全駅を訪問した。廃線から3年余りを経過した現在でもほぼ全区間に渡って荒廃した鉄道施設が放置されている。

石勝線夕張支線は2019年3月の廃線後大半の区間で放置されたままだ(筆者撮影)
石勝線夕張支線は2019年3月の廃線後大半の区間で放置されたままだ(筆者撮影)

 石勝線夕張支線新夕張―夕張間16.1kmに当たる区間が開業したのは、明治時代の1892年のこと。当時は私鉄路線である北海道炭礦鉄道夕張線として追分―紅葉山(現新夕張)―夕張間が開業し、その後1906年に国営化。夕張市内の炭鉱で産出される石炭輸送で活況を呈した。夕張線が石勝線となったのは、1981年に千歳空港(現南千歳)-追分間、新夕張―新得間の新線の石勝線が開業し、既存区間の追分―新夕張―夕張間が石勝線に編入されたことによる。

 「攻めの廃線」を行った鈴木氏が夕張市にやってきたのは2008年のこと。当時は東京都庁からの出向だったが、その後2011年に夕張市長選に出馬し初当選。2016年にJR北海道に対して自ら夕張市内を走る石勝線夕張支線の廃線を提案し注目を集めた。

 当時の夕張市議会議事録に残された記録によると、「攻めの廃線」の理由は2015年には輸送密度が119人にまで減少し年間1億6000万円にのぼる営業赤字を計上していること。老朽化した鉄道施設の改修に億単位の費用がかかるということ。鉄道の廃止と引き換えにJR北海道は夕張市に対して持続可能な交通体系を再構築するための費用として7億5千万円を拠出することだった。

 2007年に夕張市が財政破綻した際には、夕張市を応援しようとJR北海道により「SL夕張応援号」が運転され、全国から観光客が殺到。夕張市は大きな賑わいをみせた。こうしたことから「鉄道の活性化により炭鉱と鉄道で栄えた夕張の観光の目玉にできないか」という市民の声もあった。

2007年秋に追分ー夕張間で運転された「SL夕張応援号」(筆者撮影)
2007年秋に追分ー夕張間で運転された「SL夕張応援号」(筆者撮影)

2007年秋に追分ー夕張間で運転された「SL夕張応援号」(筆者撮影)
2007年秋に追分ー夕張間で運転された「SL夕張応援号」(筆者撮影)

 しかし、鉄道の活用による地域経済活性化の側面には目を向けられることがなく石勝線夕張支線は2019年3月31日を持って廃止され、その後の北海道内の鉄道路線廃止を加速する流れを作ることになる。

2019年3月31日、新夕張駅に到着した営業最終列車(筆者撮影)
2019年3月31日、新夕張駅に到着した営業最終列車(筆者撮影)

 こうした動きについては、2011年の新潟・福島豪雨で甚大な被害を受けた長期間の運休を余儀なくされたJR東日本の只見線について、鈴木氏が「攻めの廃線を」提案した同時期に、只見線の沿線自治体の首長や福島県知事が復旧に向けての取り組みを進めていたこととは対照的だ。

 只見線で特に被害の激しかった会津川口―只見間27.6kmの被災前の輸送密度は50人にまで低下し赤字額は年間3億円。加えて、復旧費用が約90億円と見積もられており、「攻めの廃線」を実施した石勝線夕張支線よりも極めて厳しい経営状況に置かれていた。

 しかし、首長をはじめ沿線からの強い要望を受けた代議士が鉄道軌道整備法の改正を実現させ復旧のための財源を整備。復旧後は上下分離方式により運行経費については県と沿線自治体で負担することとなり2022年10月に只見線は11年ぶりに全線復旧した。福島県では只見線を「日本一の地方創生路線」とすることを目標に掲げ、利用促進に向けた様々な取り組みを実施。現在では増便が必要なほどの観光客が押し寄せており、沿線で飲食店や宿泊業を営む事業者もうれしい悲鳴を上げているという。

 只見線の沿線自治体では、会津川口駅のある福島県金山町の人口はわずか3000人。只見駅のある只見町でも4000人ほどで、財政も潤沢ではない。しかし、福島県の配慮により鉄道維持のための自治体負担額は2000万円以下に抑えられており、自治体が負担できる金額しか課せられていない。

 一方の夕張市では、「攻めの廃線」を提案した翌年の2017年、当時の鈴木市長は夕張市の所有するホテルやスキー場などの観光4施設を中国系企業に格安で売却。その後、香港系ファンドに高値で転売されこれら観光施設を運営していた夕張リゾートは倒産。夕張市の最後の頼みの綱だった観光産業は崩壊した。筆者は、旧夕張駅近くで営業を続ける飲食店店主にも話を聞いたが、現在はスキー場などがかろうじて営業を再開している状況ではあるが、特に「夕張リゾートの倒産以降、観光客の客足が遠のき、厳しい経営状態が続いている」という。

旧夕張駅前で営業していたホテルマウントレースイは夕張リゾート倒産により営業を停止した(筆者撮影)
旧夕張駅前で営業していたホテルマウントレースイは夕張リゾート倒産により営業を停止した(筆者撮影)

 さらに、鉄道廃止後の代替バスについては、鉄道時代よりも増便され便利になったことが主張されたが、バスの利用者は減少傾向が続く。さらに、路線バスを運転できる大型2種免許の保有者の81%が50代以上。夕張市内でバス路線を運行する夕鉄バスのドライバーの高齢化問題も年々深刻化している。

2021年度運転免許統計より筆者作成
2021年度運転免許統計より筆者作成

 現在、夕張市の人口は2011年の1万人台から6000人台にまで減少し、人口流出に歯止めがかからなくなっており市内にはいたるところに廃墟が目立つ。さらに、2011年に約9億円あった税収も2022年には約8億円と10%以上減少した。しかし、2007年に財政破綻した際の市の借金の返済額35億円は変わらないままだ。本来、自治体再建に関わる首長が果たす役割は、人口流出に歯止めをかけ地域内での人の動きを活発化させることで、経済を活性化させ税収を上げることではないか。

◆夕張支線各駅の現状

<夕張駅>
 明治時代の1892年の開業当時は市街地外れの夕張炭鉱に隣接した地区に開業。その後、1985年から2度の移転を経て現在地に落ち着いた。大正時代の1926年に開業し1975年に廃止された私鉄の夕張鉄道線は、夕張市内にこまめに駅を設けており最盛期はこちらの鉄道が市内中心部の旅客輸送を担っていた。

廃止当時のまま残る夕張駅舎(筆者撮影)
廃止当時のまま残る夕張駅舎(筆者撮影)

2019年の廃止から放置されたままの夕張駅構内(筆者撮影)
2019年の廃止から放置されたままの夕張駅構内(筆者撮影)

廃止当時の横断幕もそのまま残る(筆者撮影)
廃止当時の横断幕もそのまま残る(筆者撮影)

<鹿ノ谷駅>
 1975年まで夕張鉄道線が分岐。函館本線野幌駅とを結び小樽港への石炭輸送の短絡ルートを形成していた。

廃止当時のまま残る鹿ノ谷駅舎(筆者撮影)
廃止当時のまま残る鹿ノ谷駅舎(筆者撮影)

鹿ノ谷駅構内の様子。左側の空き地に夕張鉄道の機関区があった(筆者撮影)
鹿ノ谷駅構内の様子。左側の空き地に夕張鉄道の機関区があった(筆者撮影)

<清水沢駅>
 1987年まで三菱大夕張鉄道線が分岐していたことから広い駅構内をもつ。駅舎側に三菱大夕張鉄道線の旅客ホームがあった。

廃止当時のまま残る清水沢駅舎(筆者撮影)
廃止当時のまま残る清水沢駅舎(筆者撮影)

清水沢駅構内の様子。左側の駅舎横に三菱大夕張鉄道の旅客ホームがあった(筆者撮影)
清水沢駅構内の様子。左側の駅舎横に三菱大夕張鉄道の旅客ホームがあった(筆者撮影)

<南清水沢駅>
 旧駅舎にはおそば屋さんが入居していた。

廃止当時のまま残る南清水沢駅舎(筆者撮影)
廃止当時のまま残る南清水沢駅舎(筆者撮影)

南清水沢駅は近隣市街地の乗客の便を図るため設置された駅であったことから旅客のみの棒線駅として開業した(筆者撮影)
南清水沢駅は近隣市街地の乗客の便を図るため設置された駅であったことから旅客のみの棒線駅として開業した(筆者撮影)

<沼ノ沢駅>
 1987年まで真谷地炭鉱専用鉄道が分岐していた。駅の無人化後には「レストランおーやま」が入居し夕張支線の廃線後も営業していたが、2022年9月の時点では廃業していた。

廃止当時のまま残る沼ノ沢駅舎(筆者撮影)
廃止当時のまま残る沼ノ沢駅舎(筆者撮影)

駅舎内で営業していた「レストランおーやま」は廃業していた(筆者撮影)
駅舎内で営業していた「レストランおーやま」は廃業していた(筆者撮影)

(了)

鉄道ライター

鉄道に乗りすぎて頭の中が時刻表になりました。日本の鉄道全路線の乗りつぶしに挑戦中です。学生時代はお金がなかったので青春18きっぷで日本列島縦断修行をしてましたが、社会人になってからは新幹線で日本列島縦断修行ができるようになりました。

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