家康・信玄の激戦地! 三方ヶ原から二俣城へ
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【どうする家康】ゆかりの地(城・古戦場)一覧と旅行モデルコース(とらべるじゃーな!)
大河ドラマ「どうする家康」では、いよいよ徳川家康が、最強の舞台・武田信玄に戦いを挑みます。その舞台は三方ヶ原。どのように行けばよいのでしょうか?
浜松駅の北口に降り立ちます。ここから、徒歩20分前後、浜松城跡に向かいます(バス便もあり)。
浜松城の天守閣です。「どうする家康」では、31歳(数え年)の家康が、武田信玄の軍勢を見守った場所です。(Yahoo!地図)
天守閣はもとは五重天守だったと推定され、やや小ぶりに再建されています。また、家康の時代に天守や石垣はなく、土塁と、かやぶきの建物の構成だったと推定されます(浜松市資料)。
家康が浜松入りしたときに滞在した、引馬城の跡も徒歩すぐです。
天守閣からの風景です。「どうする家康」の描写では、武田信玄の大軍は、まさにこの周辺に展開したはず。
この広い帯のような平地は、暴れ天竜(天竜川)が削り取って作った場所。天守閣は、天竜川が作った河岸段丘上に位置します。
バスで約30分、三方ヶ原墓苑バス停へ。進行方向に見える木立が、三方ヶ原古戦場碑です。(Yahoo!地図)
三方ヶ原古戦場碑は、このようにシンプルですが、家康と信玄の戦いを知っていればイメージがふくらむでしょう。
祝田坂上説(高柳光壽『戦国戦記1 三方原之戦』)によれば、三方ヶ原の戦いの場所はまさにここ。この説は有力ですが、諸説あります。
そもそも三方ヶ原台地は、天竜川が作った巨大な河岸段丘上の広い平らな場所ですので、住宅地に発展したのは、むべなるかなです。
一応、アップでも見ておきましょう。
※軍勢の数が劣る場合、籠城戦が定石です。家康が野戦を選んだ背景として、「どうする家康」では、まだ若い家康が無視をされて怒った、領民の目が気になるという説が採用されていました。このほか、偵察隊との小競り合いから済し崩しにという説もあります。相互に矛盾するものではなく、複数の背景があったのかも知れません。
三方ヶ原古戦場碑は意外にシンプルですので、武田軍が、家康との合戦の前に、2か月かけて落とした二俣城もぜひ見ておきましょう。武田軍は、二俣城→浜松城を素通り→三方ヶ原と軍を進めました。
二俣城はもともとは家康方の城であり、支城を結ぶ要となる城でした。家康は二俣城を守るため、本多忠勝(演・山田裕貴)を出陣させますが、命からがら逃げ帰ってきた描写が、「どうする家康」にはありました。
地形図を見て頂くと、北から流れてきた暴れ天竜の流れが、平野(扇状地)に打ち出でる場所です。そのため川沿いの交通と、東西の道が交わる重要な場所。まさに扇の要です。
このように、歴史と地形と同時に見ると、ますます興味がわいてきます。
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三方ヶ原古戦場跡碑(三方ヶ原墓苑バス停)から、バスで天竜浜名湖鉄道の金指駅へ。雰囲気のよいローカル線です。
電車の待ち時間には、ぴいぷるというハンバーグ屋さんがおすすめ。名物のみそまんソフトもあります。(Yahoo!地図、バスは金指駅の1つ前で降りる)
「どうする家康」のラッピング車両も走っていました!
天竜川を渡ります。武田軍のなかでも名をとどろかせた、山県昌景隊はこの辺りを渡って、進軍してきたはずです。武田は、この天竜川からの水の供給を絶ち、わずか1200余の軍勢でよく粘った二俣城を落としました。
いまは静かな二俣本町駅に到着。二俣城まで徒歩10分です。
階段を登り、お城らしくなってきます。
二俣城跡です!(Yahoo!地図)
武田信玄が三方ヶ原で家康を討つ前に、態勢を整えた場所です。この二俣城は、「どうする家康」の今後の展開にも大きく関わるはずですので、必見です。
なお、すぐそばに、二俣城をめぐる攻防の際に、徳川方が本陣を置いた鳥羽山城跡があります。下のページでご案内しています。
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