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50代・60代から始めるウォーキング 史跡や名所を巡るコースを歩く旅人がご紹介!歴史を学ぶ街道歩き①

わか子ライター

50代・60代は仕事や子育てが一段落してくることもあり、比較的時間にゆとりが生まれてくる世代になります。今まで忙しく頑張ってきたからこそ、これからの時間は自分のために使いたいものです。しかし、いざとなると自分がしたいことが解らないという事もあるかと思います。

これから新しく何かを始めるならば、自分が楽しいと思えることで、続けられることが大事ですが、何事もしてみないと解らないものです。色々な趣味がある中で、外で体を動かすことが嫌いでなければ比較的簡単に始められるウォーキングはいかがでしょうか。江戸時代に造られた五街道の一つである中山道を歩き、史跡や名所を巡るコースのご紹介をします。

東京中央区日本橋を出発し、かつての五街道である中山道を歩き文京区本郷の東京大学あたりまでの道のりです。距離は約5km、所要時間は1時間から2時間程度としていますが、史跡・名所をゆっくり訪ねる旅を楽しむことをお勧めします。

日本橋から中山道を歩く

日本橋を出発し北に向かって歩き始めます。江戸時代に造られた中山道、日本橋から群馬県にある13番目の宿場である高崎宿までは国道17号が並走しています。日光街道・奥州街道(国道4号)と共に、日本橋を出発した中山道は、デパートが立ち並び、近くに大きなショッピングモールもある大変賑やかな街を抜けていきます。

日本橋 国道17号と国道4号
日本橋 国道17号と国道4号

人形文化の町を伝える十軒店(じっけんだな)跡

人の往来に紛れて少し歩いた先、道路の三越側に十軒店(じっけんだな)跡の石碑があります。江戸時代のこの辺りは節句用品を扱う店が連なり時季には盛大な市が立ち、人形文化を育んだ町とあります。五代将軍綱吉が京都からひな人形師を十人招き、この場所に十軒の長屋を与えたともいわれています。

十軒店跡 日本人形文化研究所
十軒店跡 日本人形文化研究所

十軒店跡がある室町三丁目の交差点で右に曲がる日光街道・奥州街道(国道4号)と分かれ、中山道(国道17号)は北方向に直進していきます。旧中山道はJR神田駅の先で国道17号といったん分かれますが、先で合流します。合流した先で神田明神下を左に曲がり坂を登れば神田明神です。

神田明神は江戸の総鎮守

神田明神は730年創建で約1300年前になります。祭神は大国主命(出雲大社の祭神)、少彦名命、平将門命です。創建当初は現在の大手町にある将門塚近くでした。将門塚周辺で天変地異が頻発した為、将門の御霊を神田明神に慰め1309年に奉祀したとあります。徳川家康が1600年の関ヶ原の戦いに臨む際に神田明神は戦勝の祈祷を行い、神田祭の日に家康が勝利し天下統一を成し遂げたことで幕府が尊崇する神社となりました。江戸城の裏鬼門守護になる現在の地移転され、幕府により社殿を造られました。江戸時代後期の社殿は大正2年の関東大震災の火災で焼失してしまい、現在の社殿は昭和9年に再建されています。朱色と青銅色がとても美しい神社です。

江戸の総鎮守 神田明神
江戸の総鎮守 神田明神

日本の教育発祥の地と言われている湯島聖堂

湯島聖堂は1690年(元禄3年)、約330年前に5代将軍徳川綱吉により建てられた儒教の創始者である孔子の霊を祀る建物であり、後に幕府直轄の学問所となりました。現在では日本の教育発祥の地と言われており、当時の敷地内には国立博物館(東京博物館と国立科学博物館)、東京師範学校(筑波大学)、東京女子師範学校(お茶の水女子大学)が設置されていました。現在、学問所の跡地のほとんどは隣にある東京医科歯科大学になっているそうです。当時の建物のほとんどは関東大震災で焼失してしまい、現在の大成殿は1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造りで再建されています。

湯島聖堂 奥に見えるのが再建された大成殿
湯島聖堂 奥に見えるのが再建された大成殿

春日通りと春日の局

さらに国道17号を進むと本郷三丁目交差点があり、その場所は春日通りとの交差点でもあります。春日の地名は三代将軍徳川家光の乳母である春日局に由来しています。中山道より少し外れますが、本郷三丁目交差点から春日通りを上野方面に行った先に天澤山麟祥院があります。春日局が大奥を44歳で隠居し、その後はこの地で20年過ごした終焉の地です。また、お墓もありお参りすることも出来きます。

麟祥院前にある春日の局像
麟祥院前にある春日の局像

東京大学の赤門は約200年前に建てられた

東京大学の敷地は江戸時代の加賀藩の屋敷跡であり、かなりの広さに驚きます。その東京大学の有名な赤門は旧加賀藩屋敷御守殿門であり、1827年(文政2年)江戸後期に前田家の13代藩主に嫁いだ11代将軍家斉の娘溶姫の為に建てられた朱塗りの門です。

東京大学の赤門
東京大学の赤門

将軍家から妻を迎える場合、その娘が居住する奥御殿を御守殿と称し、表通りから御守殿に出入りする朱塗りの門を御守殿門と呼ばれていました。加賀藩は加賀百万石とも言われる巨大な権力を持っており、その規模を御三家の石高と比べてみると尾張が62万石、紀伊が56万石、水戸で35万石なので加賀藩の大きさが良く解ります。

中山道最初の一里塚 追分一里塚

東京大学の敷地に沿って進んでいた国道17号は、途中の交差点で左に曲がっており、この場所が中山道と岩槻街道の追分であると共に追分の一里塚があります。この場所から分かれる岩槻街道とは日光御成道の別名であり、ここ本郷追分より北上し4か所の宿場を経て幸手宿の手前で日光街道に合流する脇街道です。そして、追分の一里塚は中山道を出発して最初の一里塚です。

追分の交差点と江戸時代創業の高島屋、緑の公衆電話の隣に一里塚の説明版がある
追分の交差点と江戸時代創業の高島屋、緑の公衆電話の隣に一里塚の説明版がある

日本橋よりここまでの距離が一里で約3.927kmとなります。この場所の塚は残っていませんが説明版が立てられており、この場に一里塚があったことが解ります。また、この場所にある高崎屋は宝暦(1751‐6年)江戸中期の創業の酒屋で両替商もして繁盛したとあり、現在でも酒屋をされています。

・追分とは街道から道が分かれる場所をさす言葉で、各地に地名として残っています。
・一里塚とは日本橋から一里毎に築かれた塚で、榎などの落葉樹が植えられ距離を示したものです。現在では残っている塚は少なく、石碑や木柱、説明版として残されている場所も多くあります。
・御成とは将軍などが外出・訪問すること。
・脇街道は江戸時代の五街道の脇道の事で脇往還と言われています。地方の宿場町を結ぶ街道で主に商品の運搬に使われました。五街道に準じた管理がされていましたが、本道ほど関所の取り調べが厳しくないため女性が通りやすい道でした。

今回のコース

日本橋から本郷の追分一里塚まで約5km

日本橋を抜け、JR神田駅脇の線路の高架下をくぐり、須田街交差点で国道17号は右斜め方向に進むので旧中山道と分かれます。旧中山道はそのまま道路を直進しJR中央線の高架に沿って左に曲がりながら少し進み、右に曲がり昌平橋で神田川を渡った場所で再度国道17号に合流します。ややこしければ国道17号のまま万世橋を渡って進んでいくのも良いかと思います。

Googleマイマップで作成した地図のスクリーンショット
Googleマイマップで作成した地図のスクリーンショット

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日本橋へのアクセス

  • 日本橋駅(B12出口):東京メトロ東西線
  • 三越前駅(B6出口):東京メトロ銀座線・半蔵門線

本郷の追分一里塚からのアクセス

  • 東大前駅:東京メトロ南北線 約200m
  • 東大農学部前バス停 約50m

ライター

東京都在住のおばさんです。子育てが落ち着いてきた頃より趣味で登山や街道歩き等を始めました。歩く旅は大変だというイメージがありますが、歩く事で解る楽しみもあります。実際に歩く旅をして、歩く旅の楽しさをお伝えしたいと思っています。

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