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大人の歩くひとり旅 老害と言われそうな昔の価値観を柔軟に 時代の移り変わり考えながら旧街道を歩く話

わか子ライター

時間は10時を過ぎようとしていた。

今日は早めに自宅を出発し、趣味の1つである街道歩きの旅に出かけている。もちろん、ひとり旅である。私がシングルのおばさんという事もあるけれど、こういうニッチな趣味に興味を持つ人は私の周りにいない。そして、還暦や定年退職が目前に迫りつつある50代は、仕事に生活に忙しくしている人も多くいる。子育てを卒業しても、親の介護や、孫の世話など、新しい自分の役割が増えてくるころでもある。

江戸時代に造られた五街道の1つである中山道。日本橋から五番目の宿場である大宮宿を出発し、次の宿場に向かい歩き始めると、ほどなく古い石碑に目が留まった。その石碑は、ファミリーレストランの駐車場の入り口で、お邪魔していますと言わんばかりにブロック塀の片隅にあった。

道しるべ石 安政7年(1860年)江戸時代末期
道しるべ石 安政7年(1860年)江戸時代末期

石碑には「大山」「御嶽山」の文字が刻まれている。石碑の説明版があるので読むと、神奈川県伊勢原市の大山阿夫利(あふり)神社と、東京都青梅市の御嶽山に続く信仰の道と書かれている。交通が発達する前、江戸庶民の歩く旅の目的の1つは寺社・仏閣への参拝であった。東海道中膝栗毛も伊勢参りに行こうとする参拝目的の旅で始まる。

この場所から青梅市の御嶽山までは遠いなぁと思い、地図で検索してみると片道53km程だった。遠いと思うか、近いと思うかは人それぞれだけれど、私は意外に近いと思った。江戸の城下町から成田山新勝寺までの距離より短いくらいではないかと思う。今では日帰りで出かけられる距離であるが、江戸時代は歩く旅である。当時の旅人は1日に35kmから40kmを歩いていたので、恐らく、2泊3日の日程だったのだろう。

街道沿いにある東大成の庚申塔(こうしんとう) 元禄10年(1697年)江戸時代前期
街道沿いにある東大成の庚申塔(こうしんとう) 元禄10年(1697年)江戸時代前期

目の前に大きな高架が見えてきた。何の高架だろう?と思っていると新幹線が走り抜けた。そうか、大宮の先だから東北新幹線と北陸新幹線が一緒に走っている区間だ。走った新幹線は北陸新幹線のかがやきだと思う。いいなぁ、かがやきに乗って北陸へ。もちろん食べたいのは富山湾のぶり!と思ったけれど、ぶりの旬は冬だった。余計なことで立ち止まっていないで先に進もう。

新大宮バイパスの大きな高架の下を抜けてどんどん進むと、旧街道沿いに一風変わった古民家風の建物があった。車だとあっという間に通り過ぎてしまうけれど、歩く旅をしていると街の特徴に気付きやすい。古民家風の建物は、江戸文化文政創業を書いてある老舗のお漬物屋さんだった。旧中山道に面しており、この辺りでは江戸時代からも人通りが多かっただろうし、近隣の畑で取れる野菜を使っての漬物は重宝されたのではないだろうか。

立派な店構えの老舗であり、リュックを背負ったおばさん1人でお店に入っても大丈夫かなと気になるが、江戸時代ならともかく、平成も過ぎて令和でもあり大丈夫だろう。

いらっしゃいませ。

お店の中には店員さんが数名がおり、私が店内を見て回っているとタイミングで声をかけてくれ商品の説明をしてくれる。試食も進めてくれた。お漬物の味は素材の味に加えて本格的な深みがあり、なんとも美味しかった。

売られている漬物は、スーパーで売られているのと色合いが全く違うし、もちろん、お値段も違う。その違いには老舗の誇りと時代のニーズに合わせた商品へのこだわりだと感じる。お財布の中身と相談をして、皮付きのべったらとしば漬けをお土産に買い、再び旧街道を歩き進んだ。

スーパーで買う漬物の中には、これぞ漬物と主張する人工的な味の漬物がある。そういう、独特の味わいもなぜか嫌いではなく食べてしまうのは、子どもの頃に経験した高度経済成長期の影響が大きいのではないかと思っている。どう見ても自然界にない色合いになっている漬物やお菓子が当時は売られていた。あの頃の食べ物を思えば今の世の中は、食品添加物や化学調味料を控えて、素材のおいしさを引き出している食品が多くなっている。

亡くなった祖母が作っていた漬物を思い出した。大正生まれであった祖母が漬けた梅干しやたくあんは、スーパーで買ってくる商品と全く別物であり、おいしさの比較が出来る対象ではなかったように思う。同じ漬物だけれど、全く別のカテゴリーにわけて考える方が頭の中への収まりが良かった。

祖母の漬物は、塩分が強くて発酵している酸味があった。たくあんはスーパーで見かけるたくあんから思い浮かべる鮮やかな黄色とはかけ離れており、茶色に近い黄土色のような色をしていた。反面、梅干しはたっぷりの赤しそを使い、たっぷりの梅酢に浸る鮮やかな赤紫色をしていたけれど、とにかくたくあんも梅干しも塩味が強かった。

一日の塩分摂取量(成人)では、厚生労働省は男性7.5g、女性6.5g、高血圧学会においては男性、女性とも6g未満とされている。現代において、祖母が作っていた漬物の塩分量は致死量に等しいかもしれない。

私は、祖母が作ったたくあんや梅干しが苦手で食べられなかった。しかし、祖母が作った塩味が強くて独特の酸味がある漬物を美味しいと好んで食べる親戚がいたことを、不思議に思ったのを覚えている。

祖母が作った昔ながらの漬物には、うまみがあったのか。

漬物の塩分濃度を高くしていたのは、長期保存の目的もあるけれど、それだけではない。ご飯を多く食べられるという大きな理由もあった。

昔と今では日本人の食生活が大きく変わり、食事における漬物の役割も大きく変わった。

昔は、塩分とうまみを兼ねそろえた漬物はご飯のおかずであった。肉や魚を食べるのと同じではないけれど、ご飯をしっかり食べるために漬物は欠かせなかった。

時代は変わる。それに合わせて生活も変わってきた。昔は良かったという言葉を老害と言われる世の中で、今一度、考えることもあると思う。昔は昔で良かった理由があるし、今は今の状況にあった良いがある。昔の良かったことが、今の世の中で良いとは限らないにもかかわらず、価値観を押し付けるのであれば老害と言われても仕方がない。

漬け物だって、時代に合わせて進化しているのだから、人間の考え方もいろいろな考え方を取り入れながら進化させて、時代の流れに合わせていかなければならないのだろう。

老害と言う言葉のイメージは良くない。しかし、昭和を生きてきたおばさんにとっては、明日はわが身でもある。価値観の押しつけには気を付けようと思った。

そんなことを1人で考えながら歩いていると、ずいぶん距離が進んでいて、氷川鍬(くわ)神社に到着しており、ここはすでに上尾宿だった。上尾宿には鍬(くわ)などを作る鍛冶職人が多くいたから、氷川鍬神社と言われるらしい。神社前の歩道に中山道上尾宿の説明版がある。当時の絵には、神社の正面に本陣建物があり、両脇に脇本陣が書かれているが、旧中山道と街道を挟んで立ち並ぶ宿場の街並みは、江戸末期から明治にかけての大火によりほとんどは残ってなく、ビルが立ち並んでいる駅前らしい町並みになっていた。

次の桶川宿は遠くないけれど、おなかが空いてきたので、リュックからおにぎりを1個取り出して食べてから歩き進んだ。戦はしないけれど、おなかが空いては歩けない。

ライター

東京都在住のおばさんです。子育てが落ち着いてきた頃より趣味で登山や街道歩き等を始めました。歩く旅は大変だというイメージがありますが、歩く事で解る楽しみもあります。実際に歩く旅をして、歩く旅の楽しさをお伝えしたいと思っています。

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