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【富士宮市】武田信玄の伝説的軍師『山本勘助』の誕生の地~山本地区に残る史跡を訪ねて~

渡辺雅来地域情報発信ライター・執筆家(富士宮市・御殿場市)

山本勘助は吉野貞幸の子として誕生し、12歳で牛久保城の城主牧野家家臣、大林勘左衛門の養子となり、勘助春幸に改名します。
20歳になった勘助は武者修行の旅へ出ます。諸国を巡り、各地の大名に仕えながら武術や兵法の修行に励み、同時に築城に関する知識を身に付けました。
武者修行から戻ると、養子になっていた大林家に、男子が誕生しています。勘助は山本姓に改め、次は関東方面に武者修行の旅へ出ます。
諸国を巡って兵法や築城術などを極めましたが、色黒で隻眼、背が低く、手指や足が不自由と、ひどく風采の上がらない見た目だったため、40歳を過ぎても牢人でした。
今川家への仕官を希望した勘助でしたが、醜い外見や、片目及び手足が不自由であったこと、供ひとり連れていなかったことから、追い返されたと言われています。
その後ようやく武田信晴(のちの武田信玄)に、仕官する事になったとき、勘助は齢50歳前後になっていたと言われています。
甲斐を統一したばかりの武田軍にとって勘助の登場は、躍進の原動力になり、戦国最強の武田信玄の軍師と言われるほどになりました。
しかし山本勘助の存在は、戦国から江戸時代の史料では甲斐武田家の軍学書『甲陽軍鑑』にのみにしか記されていませんでした。その甲陽軍鑑の信憑性が疑われていたため、山本勘助は架空の人物といわれ、未だ謎の多い人物ですが、富士宮市出身という説もあり、市内にはそれを示す証がいくつも残されています。

今回はそんな山本勘助ゆかりの地を訪ねてみました。

茶畑が広がります。
茶畑が広がります。

富士宮から岩本山に続く道沿いの土井石油さん前の信号を左折すると、両側に茶畑が広がる細い坂道へと差しかかります。

母 安女の墓看板
母 安女の墓看板

この道沿いに山本勘助の母安女の墓があります。
元々は吉野家の旧屋敷の一角に孤立してあった墓碑を吉野家の墓所に移したそうです。

墓碑の下には安女の墓と刻まれています。
墓碑の下には安女の墓と刻まれています。

墓所には吉野家代々のお墓が並んでいますので、墓碑を確認しながら見つけました。手を合わせてから、吉野家と誕生地の碑までは約150mほどです。

山本勘助誕生地の碑看板
山本勘助誕生地の碑看板

『山本勘助誕生地』の碑の裏面には、山本勘助の出生から戦死するまでの事歴が記されているそうです。

『山本勘助誕生地』の碑
『山本勘助誕生地』の碑

吉野家の長母屋は火事で焼失してしまい建て替えられていますが、正面の長屋門は江戸時代のものだそう。

吉野家
吉野家

一度来た道を戻り、今度は勘助坂を目指します。

案内看板
案内看板

元来た道沿いの道祖神の上に勘助坂の案内があります。

元の道からは200mほど
元の道からは200mほど

昔は潤井川に橋がなかったため、屋敷から外へ出る為にはこの崖路を登って行かなければならなかったようです。当時はかなりの急峻で狭い道だったようですが、現在は車一台が通れるくらいの道になっています。

勘助坂看板
勘助坂看板

斜面の茶畑越しに、富士市・富士宮市が眼下に広がり富士山と新東名高速道路を臨むことができます。

転がり落ちそう。
転がり落ちそう。

別名『出世坂』と呼ばれる勘助坂。
念願の仕官に着いた時には50歳ほどだったと言う山本勘助。

諦めなければいくつになっても夢は叶う。勘助坂は少し疲れた私の背中を押してくれているようでした。

山本勘助生誕の地
住所:富士宮市山本165
アクセス:富士宮から岩本山経由で富士に至る道沿いにある土井石油さん前の信号を左折。300mほど先の左手。

地域情報発信ライター・執筆家(富士宮市・御殿場市)

身近の新しい発見や、小さな幸せを探して日々バイクで放浪しながら活動しているライターです。記事を通じてみなさまの発見や幸せに繋がれば嬉しいです。趣味はバイク、ガーデニング、猫(無類の猫好き)です。

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