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【富士宮市】江戸時代の交易路『富士川舟運』は徳川家康の命令だった!当時に想いを馳せて釜口峡を眺めた

渡辺雅来地域情報発信ライター・執筆家(富士宮市・御殿場市)

沼久保から富士川に架かる蓬莱橋。川幅が広いため、橋を架けるのが難しく、昭和30年代まで渡し船に頼っていたそうです。

また富士川は甲斐国と駿河国を結ぶ重要な流通路であり、その船着場の一つがあった沼久保地区は交易地として栄えていたそうです。

蓬莱橋手前に歴史を記した看板があるのですが、草が茂って近付くことも読むこともできません。

富士川舟運歴史館
富士川舟運歴史館

そこで富士川舟運の歴史を知ることができる場所を探したところ、富士川上流にある『富士川町交流センター塩の華に富士川舟運歴史館』があるという事で、出かけて来ました。

本三大急流の1つとされる富士川に舟運が開かれたのは、江戸時代。
京都の豪商・角倉了以(スミノクラリョウイ)が、全国から年貢米を江戸に集積する構想があった徳川家康の命を受けて着手しました。

5年をかけて開通した富士川舟運は、鮎澤(現藤川町)から岩淵(現富士市)までの約72キロの道のりを、陸路で3日かかっていた道のりを舟運では半日で下りました。

主な積み荷は下がり荷が年貢米、上り荷は塩などでした。富士川舟運は多くの人やモノを運び、富士川流域に繁栄をもたらしました。

富士川舟運に支えられていた経済、舟運の乗組員や船頭は当時憧れの職業だったそうです。

しかし、急流であるがために数々の難所(アクバ)があり、中でも「天神ヶ滝」「屏風岩」「銚子ノ口」は三大難所として、船頭たちに恐れられていました

その中の1つ『銚子ノ口』は静岡県富士宮市(旧芝川町)にある釜口です。

新内房橋上から見ると、川の中に流れ込んだ富士山の溶岩流が浸食され、流れが二つに分かれ、内房橋が架かっています。

そして釜口橋から釜口峡を覗き込むと、とっくりの口のように川幅が狭く流れが速くなっています。

水難事故も多く、『南部の火祭り』は水難事故で亡くなった方々の霊を慰める行事だと言われています。

山梨県富士川町、身延町などの富士川上流や、市内内房、沼久保、富士市岩淵など下流域で『川勧請(カワカンジョウ)』や『投げ松明』などの集落で先祖を供養するとともに、富士川で亡くなった人を供養する『川施餓鬼(カワセガキ)』が行われているそうです。

『尾崎の川供養』について地元の方に尋ねると、昔は笹や塔婆、盆灯籠などを飾った麦わらの作り物を本成寺境内で供養をした後、子どもたちが主になって神輿のように担いで集落を周り、新内房橋のたもとの河原から火をつけて富士川に流していたそうですが、子どもたちが少なくなったことなどを考慮して、今は行っていないそうです。

明治中期には吉原から富士宮間で馬車電車が開通し、大正9年には富士から身延駅が開通しました。
そうして水路から鉄路へと交通路が変わり、富士川舟運は300年以上の歴史に幕を引きました。

現在の私達の生活があるのも、こうした歴史の上に成り立っているのだと改めて知り、身近にある富士川の流れに想いを馳せていました。

釜口峡:富士宮市長貫
釜口橋:富士宮市長貫1603-18
新内房橋:富士宮市内房
蓬莱橋:富士宮市沼久保
沼久保水辺の楽校:富士宮市沼久保28

地域情報発信ライター・執筆家(富士宮市・御殿場市)

身近の新しい発見や、小さな幸せを探して日々バイクで放浪しながら活動しているライターです。記事を通じてみなさまの発見や幸せに繋がれば嬉しいです。趣味はバイク、ガーデニング、猫(無類の猫好き)です。

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