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海賊が狙う!大航海時代に日本が独占した銀鉱山王国と銀の価値について紹介

山内琉夢歴史プレゼンター

海賊が狙う!大航海時代に日本が独占した銀鉱山王国と銀の価値について紹介

島根県太田市にある「石見銀山遺跡」はご存じでしょうか?

2007年には世界遺産に登録され、現在は石見銀山遺跡の一部である「龍源寺間歩」に入って坑道内を見学できます。

龍源寺間歩坑道内の看番
龍源寺間歩坑道内の看番

銀の価値のピークともいわれる16世紀には、海賊や南蛮商人にも狙われるほどの価値を有していたそうです。

今回は、そんな岩見銀山にまつわる歴史や雑学を紹介します。

銀が貴重だった理由

龍源寺間歩の入り口
龍源寺間歩の入り口

意外なことですが、16世紀頃まで、世界では金よりも銀の方が価値が高いとされていました。

というのも、銀を鉱石から取り出す技術が発達していなかったことが原因で、希少性がかなり高かったのだとか。

さらに16世紀、中国で深刻な「銀貨不足」が発生したことで銀の需要が高まり、その価値はピークに達しました。

世界の3分の1を独占していた日本

石見銀山・龍源寺間歩の坑道の様子
石見銀山・龍源寺間歩の坑道の様子

銀の価値がピークに達していた当時、世界の産銀量「3分の1」を占めていたのが、なんと日本でした。

その主要な採掘地となったのが、今回紹介する石見銀山です。

世界中で高騰する「銀」を独占していた日本。とくに石見銀山は、今まで日本など気にも止めなかったような海賊や南蛮商人から「宝の山」として狙われるようになったのです。

上記のような背景もあり、石見銀山は幕府によって厳重に管理されていました。

ちなみに、ポルトガル人の地図製作者フェルナン・ヴァス・ドラードが書き残した「日本図」には、岩見の位置に「R・ASMINASDAPRATA(ミナスダプラタ)=銀鉱山王国」とポルトガル語で記載されていたそうです。

急落する銀の価値

石見銀山・龍源寺間歩の距離が分かる看板
石見銀山・龍源寺間歩の距離が分かる看板

銀で繁栄を目指した日本ですが、銀の価値がピークに達した直後に、欧州やアメリカなど世界各地で大きな銀山が発見されます。

18世紀以降はヨーロッパの産業革命を皮切りに世界中の技術力が向上したことで、銀の採掘が以前より容易になり、需要も低下。

さまざまな要因が絡み合い、銀の供給が需要を上回ったことで価値は急落します。

さらに江戸時代になると、石見銀山の銀も枯渇しはじめます。

次第に、採算が取れない銀から銅の採掘へと移り変わり、1923年には閉山となってしまいました。

龍源寺間歩の入り口
龍源寺間歩の入り口

導入でも触れましたが、石見銀山は現在世界遺産にも登録され、実際の坑道内を見学できるようになっています。

興味を持たれた方は、足をお運びください。

・石見銀山遺跡(龍源寺間歩は、石見銀山遺跡から約1.5km離れた場所にあります)
〒694-0305 島根県大田市大森町イ1597−3

岩見銀山遺跡公式サイト(青字部分をクリックすると、別サイトのリンクが開きます)

歴史プレゼンター

歴史ライターとしての活動経験を持ち、今までに32都府県の歴史スポットを巡ってきました。実際に現地へ行くのが難しい方に向けて、取材した歴史スポットについて紹介します。また、歴史に興味をもったことがなかった方にも楽しんでいただけるよう、歴史偉人の意外な一面や好きな食事・おやつの紹介など、ワクワクするような内容をお届したいです。

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