Yahoo!ニュース

「イチローさんが帰ってくる場所」神戸のイチローファンの愛〜 #dearICHIRO

山崎エマドキュメンタリーフィルムメーカー

〜イチローファン物語 第10弾〜

私の「人生で後悔している」トップ3に入ること。それは自分が神戸出身でありながら、イチローさんのオリックス・ブルーウェーブ時代を生で見ることがなかったという事実。イチローさんのことを知る理由となった本を読んだのが、ちょうどイチローさんがメジャーに挑戦する年だったので、仕方ないといえば仕方ないのだか…それでも悔やみきれない。

だからこそ、オリックス時代からのイチローファンの方々には憧れと尊敬の念を抱いている。去年、このシリーズを通して出会う機会があったわかばさんはそんな一人だ。

「『ファン歴は何年ですか』って聞かれて『94年からです』 って言ったらみんな 「おぉ」 って言ってくれますよね」。そう語るわかばさん。長年のオリックスファンだった流れで、イチローさんがブレイクした1994年からずっと彼を応援してきた。最初は「この子、可愛い」という印象から、大記録に向かっていく姿に虜に。呼び名も「イチローくん」 から「イチローさん」 に変わっていったという。

1995年、阪神・淡路大震災の渦中にあった神戸。わかばさんは当時の状況を思い出す。「その前の年に イチローさんがブレイクして『もうキャンプ入るな』と楽しみにしていた1月の連休明けに…地震があって。そっからピタッと 野球はなくなりました」。

神戸の復興を願ってできた合言葉『頑張ろう 神戸』。その言葉をユニフォームに縫い付けたオリックスが快進撃見せるシーズンとなった。「神戸が一丸となって復興に向けて 優勝に向かっている感じが あったん違うかな」。イチローさんが21歳で経験したこのシーズン。憶測になるが、きっと若きイチローさんにとって自身を形成した経験の一つなのではないかと思ってきた。

2000年10月、メジャーリーグ挑戦を表明し、神戸での最後の試合となった日。わかばさんや他のファンは、試合後の駐車場でイチローさんと最後の交流をした。この時、目を真っ赤にしていたイチローさんが印象的だったという。イチローさんの移籍先となったシアトル・マリナーズ。実は、神戸市とシアトルは、姉妹都市。「だから神戸の人たちにとって、シアトルってそんな遠い街だとは感じなかった」。

イチローさんが若き頃を過ごした神戸と、アメリカのホームとなったシアトル。どういう偶然か、私はシアトルと神戸の街並みには共通している部分も多くあると感じている。山があり、港もあり、街の大きさも、住んでいる人間の優しい人柄も。いつか機会があれば、その印象をイチローさんに聞いてみたい。

メジャーリーグに行ってからも、シーズンオフには神戸に帰り、自主トレーニングなどをしてきたイチローさん。神戸を大切にしてくれていることが、わかばさんたちファンの支えになり続けている。草野球のチームを、神戸で作ったのも何も驚きはなかった。「神戸以外、考えられなかった」。イチローさんの神戸愛を肌で感じてきたわかばさんはそう言っていた。わかばさんを始めとする「元祖・神戸イチローファン」の方々は、様々なイチローファンの思いを、一番近い場所から本人に届けてくれていた気がする。

イチローさんには「原点」というものがいくつかあると思うが、神戸は間違いなくその一つだと思う。若干20歳にして一気に脚光を浴びる中で感じたであろう孤独感。震災時に経験したスポーツの土俵を超えて野球が持つ影響力。その舞台は、神戸だった。その中でも、彼を支えつづける神戸ファンの方々の存在は、きっとイチローさんの強さの一部になっていると確信している。

イチローファン物語、次回に続きます。

クレジット

監督・編集 山崎エマ
プロデューサー エリック・ニアリ

制作 シネリック・クリエイティブ

ドキュメンタリーフィルムメーカー

山崎エマ(Ema Ryan Yamazaki) 日本人の母とイギリス人の父を持つ。19才で渡米しニューヨーク大学卒業後、編集者としてキャリアを開始。長編初監督作品『モンキービジネス:おさるのジョージ著者の大冒険』ではクラウドファンディングで2000万円を集め、2017年に世界配給。夏の甲子園100回大会を迎えた高校野球を社会の縮図として捉えた『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』は、2020年米スポーツチャンネルESPNで放送し、日本でも劇場公開。最新作では都内のある小学校の一年に密着。日本人の心を持ちながら外国人の視点が理解できる立場を活かし、ニューヨークと日本を行き来しながら活動中。

山崎エマの最近の記事