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イチローと担当記者の秘話 〜19年前の課題図書『イチロー 努力の天才バッター』に隠された物語〜

山崎エマドキュメンタリーフィルムメーカー

#dearICHIRO 最終回!

『イチロー 努力の天才バッター』。小学生の時、課題図書としてたまたま手に取った本が、私の人生を文字通り変えた。#dearICHIRO最終回は、イチローさんの考え方、生き方を私に教えてくれた著者であるスポーツ新聞記者の物語。高原寿夫さん(56)は現在、日刊スポーツで編集委員としてコラムを書く。彼は、イチローが大ブレイクした1994年に、芸能担当から野球担当に異動。以来、イチローと25年の付き合いになる。高原さんに会うと、彼は昔の思い出を丁寧に紐解くようにイチローとの特別な物語を語り始めた。

1994年のシーズン、イチローは200安打を放ち、瞬く間にスターへとなっていく。「とにかく取材が多くてあきらかにイチロー選手が食傷気味なのが分かる。僕は当時もう30。イチローは二十歳。何を思ったか…『イチロー君は寝る時、枕は頭に敷く方、抱く方?』って聞いたんですよね。そしたらイチローが『僕は抱く方なんですよ』って妙に喋り出すわけですよ」

そうやって始まった記者と選手の関係。高原さんは「イチローと仲が良い」とは決して思っていない。あくまでも取材者と取材相手。「ある意味で、お互い変人だから、なんか無視できない相手になったんだと思う」

課題図書として出会い、自分の人生を変えた『イチロー 努力の天才バッター』。イチローの子供の頃からプロになって活躍するまでの半生が描かれている。プロ野球選手に目標を叶えるべく、毎日練習をした日々。コツコツと努力することの大切さが伝わり、スーパースターイチローのことだからこそ、揺るぎない説得力がある。それを高原さんは子供が共感できる言葉を並べ、伝えていた。

『あの本』のことが聞きたい。私がそう質問した時、その裏側で起きていた出来事を何も知らなかった。

「実はそれ以前にも 『本書きません?』っていうお話は頂いていたんですけど、本業は記者ですから、本を書くとなるとその仕事を終えた深夜とかに書くことになる。妻が 『あんたがしんどいんだったら、やらんかったらええやん』 っていつも言ってくれて、断ってた」。ところが2000年に飛び込んできた依頼は、子供向けの本。「あんな 『やめといたら』 っていう人が『子供向けならあなたやるべきじゃない?』ってえらいプッシュしてくるわけです」

妻に後を押され、受けた仕事。当時、高原夫妻は小さな娘が2人。そして3人目の妊娠がわかった頃だった。

イチロー選手の生き方には、使い古された言葉に、新しい意味を吹き込む力があると高原さんは言う。「彼のモットーは『継続は力なり』。ものすごく古臭い言葉なんだけど、やっぱりそれは日本人の原点みたいなところがあるじゃないですか、コツコツやるっていうね。そういうのを彼が身を持って示したことで、やっぱりそうしないとダメなんだって思うじゃないですか」。子供たちにイチローの志を伝えたい。その願いを込めて書かれた本は2000年11月に完成。同じ月に3人目の娘が誕生した。

しかし、その11日後、高原さんの妻は突然倒れ、亡くなってしまった。

ちょうどその秋、メジャー行きを表明していたイチロー。高原さんの妻の悲報は彼の耳にも届いた。「通夜に来てくれてね。夜中みんな帰った後ぐらいに。結構運命みたいなものを彼も感じながら生きてる人で。人間それぞれ寿命がある。そう思って生きて行かなきゃしょうがないよねって…」

高原さんは、イチローにちょっと意地悪な気持ちで言ったという。
高原  「イチローの大リーグ挑戦も運命だったかもしれないし」
イチロー「そうです」
高原  「失敗するかもしれないしな(笑)」
イチロー「そうですよ。その時はまたやり直しますから」

5ヶ月後。2001年4月2日。イチローはシアトルのセーフコ・フィールドで、初のメジャー開幕戦を迎えた。高原さんは記者として、その瞬間に立ち会った。「家族をおいていけないっていう気持ちもあったけど、イチローの開幕戦は見なきゃとも思った」。

イチローがメジャー初ヒットを放った試合後。大勢の記者がイチローに近づこうとするも止められる中、会見に向かう直前、なぜか高原さんだけ止められずにイチローに駆け寄った。

高原  「なんかヒット涙出たわ」
イチロー「僕もです」

2人は握手を交わした。それは、2人の溢れる想いが形になった一瞬ではないだろうか。高原さんはこの時、「やっぱりあの本を書いて良かった」と思ったという。

私が高原さんにお会いする時、「あの本を書いてくれてありがとうございました」という気持ちを精一杯伝えようと思っていた。奥様に後押しされて書いた『本』だと知った今、その感謝の気持ちは天国にいる彼女にも届いてほしい。

『あの本』が自分の人生に与えた影響を伝えた時、高原さんはとても喜んでくれた。『偶然』と『必然』の中に『あの本』が生まれ、日本中の子供たちに届いた。そして本の一部は道徳の教科書に載り、今もなお子供たちのもとに届き続けている。イチローさんを現役で見ることができない時代になった今、彼のことを次世代の子供たちに伝えていくためには、まさに宝の様な本だと思う。

3人の娘さんを抱え、生きていくことが精一杯だった日々。あれからもうすぐ20年が経つ。長女は去年結婚。三女も大学生になった。周りに助けてもらいながら、第一線で活躍する記者であり続け、シングルファザーとしての役割も果たしてきた。その間、イチローは海の向こうでメジャーリーガーとして活躍し続けた。

「日本人だとこの30年近く、平成の時代でね…それこそ朝起きたりご飯食べたり歯を磨いたりすると同じレベルでイチローがヒットを打ってる。そういう感覚でいたからね」。そんなイチローの姿が、高原さんの日常に浸透し、少しばかり支えになっていたのではないかと思う。

#dearICHIROに取り組んで1年。イチローさんが与えてくれた計り知れない影響を、少しでも形にして、いつか彼に感謝の気持ちと共に届けられたら。そう願ってきた。様々な出会いから得た教訓を胸に、このシリーズは完結する。

今、コロナの影響で思う通りに行かない日々を過ごしている人たちが多いと思う。こんな時期だからこそ、さらに心に響くイチローさんの言葉を高原さんが教えてくれた。

「(イチローが) ヤンキースの時にスタメンで使ってもらえなかったじゃないですか。そのオフに『ほんまは腹たってるんちゃうん?』って話をしたら『いえ』って。『だって自分がコントロールできないことを色々思ってもしょうがないでしょ』って。スゲエなって思って。それが実は人間の生きて行く上で一番重要なことなんですよね。みんなそれができないんだけど。それができれば日日是好日」

努力すること。準備すること。小学生の時に高原さんの本を通じた学んだイチローさんの志。大きく変わっていくこれからの世の中でも、その志を胸に私も、夢を目標に変え、これからも前に進もうと思う。

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#dearICHIRO 1〜10話はこちらから!https://creators.yahoo.co.jp/yamazakiema/

クレジット

監督・編集 山崎エマ
プロデューサー エリック・ニアリ
オンライン 佐藤文郎

制作 シネリック・クリエイティブ

ドキュメンタリーフィルムメーカー

山崎エマ(Ema Ryan Yamazaki) 日本人の母とイギリス人の父を持つ。19才で渡米しニューヨーク大学卒業後、編集者としてキャリアを開始。長編初監督作品『モンキービジネス:おさるのジョージ著者の大冒険』ではクラウドファンディングで2000万円を集め、2017年に世界配給。夏の甲子園100回大会を迎えた高校野球を社会の縮図として捉えた『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』は、2020年米スポーツチャンネルESPNで放送し、日本でも劇場公開。最新作では都内のある小学校の一年に密着。日本人の心を持ちながら外国人の視点が理解できる立場を活かし、ニューヨークと日本を行き来しながら活動中。

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