Yahoo!ニュース

「戦時も映画屋はくじけなかった」二度検閲された名画『無法松の一生』、修復者の思い

山崎エマドキュメンタリーフィルムメーカー

日本映画屈指の名作といわれる『無法松の一生』(1943)の4K修復版が、第77回ベネチア国際映画祭のクラシック部門に選出され、8月31日にイタリア・ボローニャで上映された。明治時代の九州・小倉を舞台に、破天荒な人力車夫と、急死した陸軍大尉の未亡人やその息子との交流を描いたこの作品。日本映画の基盤を作った一人とされる稲垣浩がメガホンをとり、日本映画界を代表するカメラマン・宮川一夫が撮影した。しかし戦中・戦後に2度の検閲を受けるなど、作品が歩んだ道のりは決して順風満帆ではなかった。そんな名画の修復作業に奔走したのが、宮川の助手を30年以上務めた、宮島正弘さん(78)だ。「死ぬまでにこれだけはやりたい」。コロナ禍のなかで、宮島さんはなぜ修復に乗り出したのか。蘇った作品は、戦後75年を迎えた私たちに何を伝えるのだろうか。

■「修復したら死んでもいい」宮川の撮影作品に魅せられた宮島さんの原点
「コロナどころじゃないですよ」。2020年4月から始まった『無法松の一生』修復プロジェクトで駆け回る宮島さん。近年、宮川一夫が撮影した代表作『雨月物語』や『山椒大夫』などの修復監修を、巨匠マーティン・スコセッシ監督と共に手掛けてきた。宮川の撮影作品に初めて触れたのは少年時代だという。
広島育ちで、小学生の時に『山椒大夫』を見て「映画というものは何なのか。見てる時は泣かなかったのに、家に帰ってから涙が止まらなかった」と感激。この時はまだ宮川の撮影作品だと意識していなかったが、映画界入りを志望する動機となった。上京して最初に『用心棒』を見た時に、自分の心を動かす多くの作品を宮川が撮影していることを知った。「なんとしてでも、宮川一夫
と仕事がしたい」。大学で現像や撮影の技術を学び、他の就職先を蹴って大映本社ビルで永田雅一(大映社長)に直談判、1966年に入社を果たした。
宮川の助手として働き、毎日撮影の終わりには「絵が得意」という長所も生かし、その日撮った画の絵コンテを宮川の台本に書き込むようになった。そうして、宮川にとって不可欠な存在になっていった。宮島さんは「宮川さんは僕の恩師。とにかく彼の技術を盗みたくて、ご飯を食べる時間も惜しむぐらい必死についていった」と思い返す。
筆者が数年前に出会った時から、宮島さんは「自分の恩師の出発点となった『無法松の一生』を修復したら、もう死んでもいい」と話していた。コロナ禍でもその修復作業に奔走させるほどの『無法松の一生』とは、どんな作品なのか。

■芸術は“不急不用品”の戦時 制作陣の覚悟「これが日本映画の最後かもしれない」
物語は、人力車夫・松五郎が、急死した友人である陸軍大尉の未亡人・良子に密かに恋心を寄せ、女手一つで息子・敏雄を育てる良子を手助けしながら純真に思う様子を描く。作家・岩下俊作が1938年に出版した原作は、これまで幾度となく映画や舞台、歌で取り上げられてきた。中でも1943年に制作された白黒映画版は、戦前の剣劇スター・阪東妻三郎が主演し、映画界を代表する監督やカメラマンが携わった指折りの名作として名高い。
撮影されたのは第二次世界大戦の真っ只中。フィルムは当時、爆弾の材料にもなるニトロセルロースだ。「映画にまわすフィルムは1フィートもない」という臨戦体制下の映画界は、内務省警保局の厳しい検閲を受け、「芸術作品は不急不要品」として多くが却下された。国民の戦意高揚に効果が期待できる映画が優先的に制作されていた。
英雄伝でも剣客伝でもない『無法松の一生』は、脚本段階の検閲で「演出上の要注」箇所を多く指摘されながらも、制作陣が撮影に踏み切った。「これが日本映画の最後になるかもしれない、という覚悟でいたと思う」と宮島さんは語る。実際に宮川一夫は後にインタビューで、「それとやはり『これが最後かな』という思いですね。最後だからこそ、やれるだけやっておきたい。あの頃は、働きざかりのスタッフが一人、二人と出征して行くでしょう。自分の部屋の前で『さよなら写真』を撮って去っていく。彼らのためにも頑張ろうという気持ちでしたね 」と語っている。

■宮川の“原点”が詰まった作品 検閲官は「もってのほか」
映画の中でも有名な場面は、最後の数分を飾るシーケンスだ。花火・提灯行列・運動会など、死ぬ間際の松五郎の脳裏が、46のショットがオーバーラップ(画面を重ねて描く技法)されて描かれる。後に日本を代表するカメラマンとなる宮川一夫の原点がここに詰まっているといわれている。箇所によっては四重もあるオーバーラップは、「勧進帳」と名付けられた準備表に沿って手回しで撮影された。光の強度を設定するための露出計もない時代に、カンだけに頼る。宮島さんは「一つ間違えたら全部パーになる。人間の手でやるからね、並大抵のことじゃない」と話す。
完成作品は99分の大作となった。しかし、『無法松の一生』の復元活動や調査を長年行ってきた映画評論家の白井佳夫さんによると、試写をした内務省の検閲室長は、松五郎が未亡人を訪ねて告白しようとするクライマックスシーンを見て激怒したという。検閲官は「人力車夫が大日本帝国陸軍軍人の将校の未亡人に、恋幕の情を抱くなどとは、もってのほかである」として10分の削除を命令する。
作品に好意的だった検閲室長の部下には「検閲で切るのはもったいない。検閲保留にして少し待ったらどうだ」と提案を受けたが、費用を回収する必要のあった会社側が「少しぐらい切られても封切る」と譲らなかったという。検閲官に「そちらで自発的にやってくれ」と言われ、稲垣は自らの手で、自分の映画を切った。宮川一夫の渾身のオーバーラップシーケンスの中に写る未亡人のカットも、涙ながらにハサミを入れたという。

■「軍国主義を発起させる」二度目の検閲 戦争に翻弄された43年版、何を映し出したか
『無法松の一生』が封切られたのは、明治神宮外苑陸上競技場で出陣学徒壮行会が開かれた一週間後、1943年10月28日のことだ。松五郎の献身的な精神や無償の愛に国民が飢えていたかのように、映画は大ヒットし、この年の興行収入の2位となった。10万人を超えるといわれる出陣学徒の中には、入営直前に『無法松の一生』を劇場で見た者も多くいたといわれている。
稲垣監督は後に「あのような暗い戦争の時代にあのようなヒューマンな映画をつくったという、そういう気持ちが自分たちのなかにあった」と語っている。ただ、ヒロイン吉岡夫人を演じた園井恵子が移動演劇隊として巡業中の広島で被爆し、32歳の若さで命を落とすなど、戦争の悲劇からは出演者も逃れられなかった。
戦争終結後、今度はGHQが「軍事主義を発起させる可能性がある」と判断した歌や喧嘩のシーンなど8分を削除。『無法松の一生』は内務省とGHQによって二度検閲された作品となった。宮島さんは「こんな数奇なフィルムはない。二つの国に切られた作品。それでも名作と言われる」。映画評論家・白井佳夫氏は「かえってこの映画は、男女の愛情を超えて、美しいもの、悲しいもののために自分の純情を捧げたくなる、それが人間の生き方じゃないの、と(描かれている)。こういう作品を、検閲官もが手を貸して作ってしまっている」と指摘する。
映画が“完全版”として再び人々の前に現れるのは、1958年のことだ。稲垣はこの年、検閲前と同じ脚本と絵コンテで、三船敏郎が主演のカラー作品として制作。作品はベネチア映画祭で金獅子賞を受賞した。

■「宮川さんの思い、次世代に残す」宮島さんが43年版に懸ける熱意
ただ、58年版を撮影しなかった宮川は、生涯その作品を見なかったという。「どうしても見
る気になれなかった。見るのが嫌だったんですよ」と語る。宮川は、金獅子賞を受賞に対して、様々な思いを持っていたに違いない。だからこそ宮島さんは43年版の修復にこだわりを持つ。制作現場に自身はいなかったものの、「今、宮川さんの心を知っている人で生きているのは自分だけ。宮川さんの思いを読み取って、次世代に残す。フィルムが完全に消耗してしまう前に修復するのが自分の使命だ」と語る。
修復プロジェクトは終戦75周年に当たる今年、映画を所蔵するKADOKAWAと、映画の修復の専門とするアメリカのシネリック社が、京都文化博物館と巨匠マーティン・スコセッシの財団の協力を得て実現した。そして修復監修には、宮島と共に再びスコセッシ監督も関わることとなった。検閲された計18分間のフィルムは現在も在りかが不明なため、修復されるのは検閲後の状態の43年版だ。作業は3つの国を跨ぐ壮大なものとなった。ニューヨークでフィルムのスキャンニングとデジタイズ化、ポルトガルでは傷などを1フレームずつ取り除く作業など、そして日本では宮島さんの監修の元、色の調整などが行われた。使用されるマスターポジフィルムには多くの傷があり、コロナ禍の影響で強いられるリモートでの作業は困難だった。しかし宮島さんは「戦後75年たってやっとの思いで修復ができるようになった」と、監修業務のために自宅のある京都から東京に出向くこともあった。劇中のすべてのカットの絵コンテを自ら書き、光の具合や意味付けなど宮川の意図を理解した上で、元の表現に忠実な修復を行うよう努めたという。修復は8月に完了し、今年のベネチア国際映画祭のクラシック部門に選出された。修復を終えた宮島さんは、こう話した。「戦争中でも映画屋さんはくじけなかったということを知って欲しい。名も無いスタッフも含め、多くの人が力を合わせて作り上げた名作を、100年先まで見てもらえるようにしたかった。本当は現地行って、お客さんの反応を見たかった。宮川一夫さんも喜んでいると思う」

■「不要不急」の時代に映画を作った制作者たちが投げかける問い
筆者は平成生まれの映像制作者だ。戦時中に様々な困難を乗り越えて作られた白黒映画が持つ意味を本気で考え始めたのは、今年、コロナの影響で予定していた自分自身の映画制作が不可能になり、当たり前だった自由な暮らしが奪われたからだ。
「不要不急以外の活動を避けましょう」と言われ続ける2020年。映画制作は不要不急なのか、改めて考える機会にもなった。ベネチア映画祭でオリジナル版の『無法松の一生』が上映された今、稲垣監督や宮川一夫を始めとした制作者は、喜んでくれていると思う。そして、今だからこそ、この作品の運命に目を向け、今の時代に必要な信念とは何なのかを問いたい。

クレジット

監督・編集 山崎エマ
ナレーション リリー・フランキー

プロデューサー エリック・ニアリ
エグゼクティブ・プロデューサー 小寺 剛雄 五影雅和
撮影監督 古屋幸一
音声 岩間翼
オンライン 佐藤文郎

制作 シネリック・クリエイティブ、KADOKAWA

取材・アーカイブ協力 京都文化博物館 松竹撮影所(京都)宮川一郎 わだつみのこえ記念館 IMAGICA Lab.
白井佳夫 太田米男 田村亮 田村 幸士 稲垣涌三 冨田美香

ドキュメンタリーフィルムメーカー

山崎エマ(Ema Ryan Yamazaki) 日本人の母とイギリス人の父を持つ。19才で渡米しニューヨーク大学卒業後、編集者としてキャリアを開始。長編初監督作品『モンキービジネス:おさるのジョージ著者の大冒険』ではクラウドファンディングで2000万円を集め、2017年に世界配給。夏の甲子園100回大会を迎えた高校野球を社会の縮図として捉えた『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』は、2020年米スポーツチャンネルESPNで放送し、日本でも劇場公開。最新作では都内のある小学校の一年に密着。日本人の心を持ちながら外国人の視点が理解できる立場を活かし、ニューヨークと日本を行き来しながら活動中。

山崎エマの最近の記事