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「テレビから消えて10年ー マジシャン・セロが今考える自身の存在意義とは」

2003年のテレビ番組で人気に火がつき、10年もの間「スターマジシャン」として一世を風靡(ふうび)したセロ。俳優の木村拓哉さんにものまねされるほどの人気で、多くの人に強い印象を残した。ところが、2014年を最後にテレビから姿を消す。高視聴率が求められるテレビ業界で新しいマジックを次から次へと求められたあげくに燃え尽き、マジックへのモチベーションを失ってしまったのだ。それから10年近く。コロナ禍で失った活動の場を取り戻しつつあるセロがいま思うのは、自らの存在意義とレガシーについてだ。その真意を聞いた。

●あっという間にスターマジシャンに
セロが初めてテレビに出演したのは、2003年のスペシャル番組。待ち望んでいたチャンスだった。「この2時間に当時の持ちネタを全て詰め込んで、これ以上見せるマジックがないというほど出し切った。そうしたら放送翌日にプロデューサーから電話があって、『視聴率がとても良かった。もう1本、2時間スペシャルをやってくれないか』という相談だった。次に何をするかはわからなかったけど、もちろん、即答で引き受けた」

その後、半年かけて編み出したマジックを次の番組につぎ込んでは、また次の番組に向け準備を始めるパターンが繰り返された。年に2本のスペシャル番組で60個ほどの新しいマジックを披露。自身が製作・出演した番組は計16回放映された。

番組ではストリートマジシャンと紹介されていたため、外出するたびに多くの人からマジックを求められた。「忘れられない体験だった。自分のことをスターとは思ってないけど、セレブリティのライフスタイルを味わえた。サインを求められたら喜んでしたし、何よりも日本のほかのマジシャンたちに認められたことがうれしかった。この波にいつまでも乗り続けようと思っていた」と振り返る。だが番組を重ねるにつれ、マジックに対するセロの意識は変わっていった。

「ミュージシャンはヒット曲を作れば何度も歌えるけど、テレビで一度見せたマジックはもうやれない。『それはもう見た、はい次』と、マジックの扱いが消耗品のように思えた。その頃はやり始めたYoutubeなどでは、いろんなマジックの見せ方が出てきてたのに、テレビではそれまでと同じフォーマットしかやらせてもらえなかった」

番組の目玉となる大掛かりなマジックばかり求められた。前回を上回る規模とクオリティを保たなければならないとのプレッシャーは半端ではなかった。やがてセロは、自分がマジックを生み出す動機が視聴率になっていることに気づく。「マジックが汚れてしまったように思った。いったん全てから離れないといけないと感じた」。2014年、海外でもテレビ出演を始めた頃だったが、これを機に身を引いた。

しばらくはバーンアウト状態が続いた。「マジシャンとしてのパッションを失くしてしまった。食事もおいしく感じられなかった。パーティーに行っても楽しく感じなかった」

マジックでしか生計を立てたことがなかったセロは、企業向けのイベントに活動をシフトし、ショーをこなした。テレビの影響力は大きく、生活を維持するには十分な仕事があった。人にマジックを見せることで満たされていた部分もあり、少しずつ意欲も自信も取り戻してきていた。それを暗転させたのが、2020年に日本にも押し寄せたパンデミックだ。イベントやパーティーが開催されなくなり、活動の場を完全に失った。

●6歳でマジックに心をつかまれ
セロ・タカヤマは1973年9月、日本人の父とモロッコ系フランス人の母との間に、米・ロサンゼルスで生まれた。両親が離婚したため、幼少期から父と2人ロスで暮らた。米国でもセロのようなハーフは珍しく、偏見や英語がうまく話せないことから学校で孤立してしまい、勉強にもついていけずに苦しんだ。自分は米国人なのか、日本人なのか、それとも欧州人なのか。アイデンティティーに悩み、自分は空っぽで、何もないと思っていた。

転機は6歳のときに訪れた。ラスベガスでマジックのライブショーを見て、一瞬で心をつかまれた。「感動的だった。本当の魔法使いがいると思った。それ以来『奇跡を起こす力』が欲しくなって、念力でコップを動かす練習を何度も繰り返した」という。10歳の時にハリウッドのマジッククラブで『プロマジシャンに教わる10回分のプライベートレッスン』を受けたのをきっかけに、マジシャンへの道が開けた。マジックに「秘密」があることを知り、さらに夢中になった。どこへ行ってもトランプさばきを練習していたため、「学校でギャンブルをしている」と疑われ、父親が呼び出されたこともあった。「マジックとの出会いで、空っぽだった自分が唯一、自分にしか持てないものを手にした」と思えた。

ただ、そこからの道は険しかった。家庭の事情で父親が家を失い、セロは15歳で退学せざるをえなくなった。沖縄に住む祖母の家で暮らすよう父から言われ、13万円を渡され飛行機に乗った。ロス育ちのセロは田舎の島へ送られることが耐えられず、成田空港では乗り継ぎをしないで東京に向かった。東京には知り合いが1人だけいて、6畳一間のアパートに転がり込んだ。知人はアーティストだったがカネがあまりなく、父からの13万円を使い果たしたセロは1日1食で暮らした。居酒屋でアルバイトをしてみたが、性に合わず1日で辞めた。セロは今でも「パッションを感じていないものに時間を費やせない性格」だと言う。やはりセロには、マジックしかなかった。

歌舞伎町や六本木、銀座などの飲食店に出向き、「ノーギャラでいいのでマジックをやらせてください」と売り込み、ショーをする日々を続けた。未成年だったが、時代がまだ「緩かった」ことも幸いした。バブル景気で客も気前がよく、チップでなんとか暮らしていった。

そんな時、客の紹介で出会った投資家がセロの才能と可能性に興味を持つようになった。そのサポートで国際的なマジックコンペティションに出場し、活動の場が飛躍的に広がるようになった。そして、ついにテレビ出演の依頼が舞い込んだのだ。「僕の『一夜の成功』は15年かかった。僕は逆輸入のマジシャンのように言われることが多いけど、本当は10代の頃からずっと日本で努力をしてきたんだ」

●「ピュアな感動を後世に」
テレビを離れてからも活動は続いた。日本でのショーの合間に海外を旅行したり、コンベンションに参加したりして過ごした。10年はあっという間に過ぎていった。コロナ禍で自分と向き合う時間が増え、2022年に迎えた49歳の誕生日。50を目前にして考えたのは、自分がこの世に存在する意義だ。「自分のたどった軌跡は何も変えたくないけど、自分がなぜこの世に生まれたか、どう覚えられたいのかについて考えるようになった」。やはり自分にはマジックしかない。だから、いま自分がなすべきは、マジックを後世に伝えることだと思った。

「マジックは僕のコミュニケーション能力を向上させて、たくさんの友達を与えてくれた素晴らしい芸術だ。いまは情報量の多さからどうしてもトリックだけを見せる短いクリップが流通しがちだけど、僕が知っているマジックはそうじゃない。言葉にできないけど不思議な力を見た時に感じる感動……かな。それがマジックだという認識を広めたい」

また1から始めるという意識で、ソーシャルメディアで自分の活動を発信し始めた。テレビで作られた虚像ではなく、等身大の自分を見てもらいたいと思うようになった。マジックもまた、欺いたり、見破ったりするトリックとしてではなく、感動を呼び起こすツールとして認識してもらいたいと。

実験的な試みも始めた。友人が経営するサッカーキャンプや格闘技教室など、子どもが集まる場所へ出向いての講演だ。シンプルなマジックを見せたり、仕掛けを教えて一緒にやってみたりしている。

この10年間、限られた環境でしかマジックをしていなかったため、いまの人たちがマジックをどう思っているのかを確かめる試みでもある。「 子供は正直だから、面白くなかったらそう言う。手応えを感じられるのは、自分がやっていることが間違ってないからだと思う」

セロが講演で親子に必ず伝えるメッセージがある。「マジックを見たときに感じる気持ちを覚えておいてほしい。今日、このマジックの『秘密』を教える代わりに、これを練習してお友達や親戚にその同じ気持ちを感じさせてほしい」。10歳の自分がマジックレッスンを受けて、初めて自信を持ったような体験を、今度は提供する側になりたいと考えるようになった。

ある日の講演が終わった時、セロはひとりの少年からマジックをせがまれた。セロは赤いハンカチをポケットから取り出し、左の拳の中へと詰め始めた。少年の視線はセロの拳にロックオンしている。そしてハンカチが入っているはずの手を開いていくと、ハンカチは跡形もなく消えていた。「えぇ!?」と驚く少年の頭を軽くなでたセロは、「はい、終わり!帰ろうね」

「いつでもマジックができる準備をすることはマジシャンとしての責任だと思う。パフォーマーだから、状況が許せばマジックを披露して、人から笑顔を引き出することはいまでも大好きだよ」とセロは話す。

マジックには、見る人の子ども心を呼び起こす力がある。何歳であろうと、その人が内面に持っている子ども心がマジックに感動する。そのピュアな感動を後世に伝えることが、いまの自分の役目だ。セロがたどり着いた結論である。

「この人生がいつ終わるかは、誰にもわからない。だからやること全てに意味を持たせたい。自分や他の人たちの人生を充実させるマジックをしていきたい」

クレジット

取材・撮影・編集:森本 J 遊矢
プロデューサー:髙橋樹里 金川 雄策
アドバイザー:庄 輝士
記事監修: 国分高史 中原望

日本で生まれ、アメリカで育つ。マサチューセッツで大学を卒業後、ニューヨーク、東京と拠点を移しながら映像製作に携わる。2012年に独立して現在では京都を拠点に映像作家として活動中。 弟はミュージシャンの Sen Morimoto。

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