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【戦国時代】「欲しい、ノドから手が出るほど!」戦いに生きる武将たちが競って追い求めた至高の宝物・3選

原田ゆきひろ歴史・文化ライター
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ときは戦国時代。当時を生きる武将たちが求めるものと言えば、とうぜん領地や兵力・・あるいは名誉なども、当てはまるでしょうか。

しかし、それらとは全く別のカテゴリーで、多くの武将が「あれが欲しい!」とばかり、恋こがれた宝物が存在していました。

この記事では、そうした中でも特に際立っていた伝説級の宝物を3つ、それぞれエピソードもまじえて、お伝えしていきたいと思います。

①蘭奢侍(らんじゃたい)~いちどきりの極上の香りを~

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今から約30年前、大河ドラマ『信長』では、こんなワンシーンがありました。上洛を果たして覇権を手にした織田信長が、京都の公家たちを前に言います。

「余は、蘭奢侍を所望いたす!」

それを受け「ど・・どうかそれだけは、ご勘弁を!」と、慌てふためく姿が印象的でしたが、蘭奢侍とはいわゆる香木のことです。破片を燃やして、煙とともに匂い立つ香りを楽しむものでした。

それだけでも、なんとも高尚なイメージですが、その中でも蘭奢侍は最上級の宝物であり、その香りを味わったのは歴史上でも、足利義満や明治天皇など、日本の頂点に身を置く人物のみでした。

本体の大きさは約156センチと、女性の平均身長ほどあるものを、少しだけ切り取って味わいますので、そう簡単にはなくなりませんが、その行為が許されるのは特別中の特別。

織田信長が実際に切り取って匂いを味わった頃、日本の中では最大勢力でしたが、まだ大きな抵抗勢力も残っている状態でした。全国制覇にはまだ少し距離がありましたが、もはや自分こそ天下人なのだと、そうした自信の表れだったのかもしれません。

「そこまでして、一体どんな香りが?」と、一般人には気になってしまいますが、令和の今なお、蘭奢待の現物は正倉院の宝物庫に、保管されているといいます。

②善光寺の絶対秘仏~ひかり輝く加護を我らに~

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当時、日々を生き死にの世界で生きていた戦国武将たちは「神仏の加護を得たい」という想いが強くあり、有名なところでは上杉謙信が毘沙門天を信奉し、軍勢の旗印にも用いていました。

ほかにも『自仏(じぶつ)』と言い、霊験あらたかな仏像などを、自らのすぐ近くに置いておきたいという考えが、多くの武将にありました。

その中でも武将たちが競って欲しがったのが、今でいう長野県・善光寺の御本尊とされる仏像でした。

今でも日本語には「牛にひかれて善光寺まいり」という言葉がありますが、数あるお寺でも最古といえる歴史を誇り、そのご本尊はあまりの尊さから、住職でさえ目にすることができない絶対秘仏とされています。

現在では7年に1度にご本尊のご開帳がありますが、ここでお目に掛かれるものさえ、絶対秘仏の代わりとして拝むべく作られた仏像なのです。

さて、戦国時代に武田信玄がその勢力を拡大して、長野県にも領土を広げると、上杉家との対決が始まります。

すると信玄は本拠地に近い場所に、甲斐善光寺(かい・ぜんこうじ)という新たなお寺を建立。そこへ善光寺の御本尊を含めた仏像や、僧侶たちに至るまで移動(持ち去り?)させたのです。

いちおう「戦災から守る」という名目を掲げていましたが、かつてない強敵との戦いを前に、おそらく日本でも最高の加護が得られそうな仏像を、身近に置きたかった意図があったと思われます。

それから時が経って織田信長が武田家を滅ぼすと、甲斐善光寺にあった仏像を、こんどは自領の尾張に運んで行きました。

そして本能寺の変が起こって信長が死去すると、その次は豊臣秀吉が手に入れ、さらに徳川の世になると「仏像を本来の場所に戻さなければ、むしろ治世に災いが起こる」といった考えが持ち上がり、ようやく本来の、長野の善光寺に帰還を果たしたのです。

このように仏教と戦国大名のつながりは深く、なかでも最高峰に由緒ある善光寺の絶対秘仏は、多くの武将がその加護にあやかろうとしたのです。

③天下三肩衝(てんか・さんかたつき)~茶器ひとつで国が買える?~

ときは1582年。織田勢の主力に滝川一益(たきがわ・かずます)という武将がいました。彼は甲斐の国へ侵攻する際、武田家の撃破に大きな功績を残しました。信長は彼の働きぶりを称え、言いました。

信長『ようやった一益!こたびの勝利、見事じゃ。褒美はなにを望む?』

一益『はっ!それでは上様がお持ちの、珠光小茄子(じゅこうこなす)を所望いたしたく・・』

信長『ふむ、あれか。あれは・・まだお主には、ちと早い。恩賞は領地といたす。上野の国、ならびに信濃の国の一部を与えよう。』

一益『は・・ははあっ!あ、ありがたき幸せにござりまする!』

とは言ったものの、のちに『ああ、本当は珠光小茄子が欲しかったのう』と漏らしたという、言い伝えが残っています。

この珠光小茄子とは、いわゆる“茶器”ですが、命がけで戦った褒美に茶道具を望むとは、どういうことなのでしょうか。

これは当時、滝川一益だけが特別な価値観というわけではなく、茶道は戦国武将たちの大いなるステータスでした。

茶会は今で言う高級サロンのようなものであり、由緒あるものは高級ゴルフ会員権のように、有力者のツテや権勢がなければ、参加は許されないほどでした。

そして有名な茶器となれば、黄金かそれ以上の宝物とされ、城ひとつや、あるいは国1つの価値にも匹敵すると、言われるものまで存在したのです。

そんな中でも、特に最高峰とみなされていたのが、天下三肩衝(てんか・さんかたつき)と呼ばれる3つの茶器で、持ち主は様々な武将や豪商の間を転々としますが、好奇心や収集熱の高さからか、織田信長が大いに欲しがりました。

天下の覇者となり、3つのうち2つを入手。そして最後の1つは・・とある博多商人が持っていたのですが、彼が京都に滞在しているという情報が、信長の耳に入ります。

すると信長は本能寺で茶会を開き、例の博多商人もそこへ招待して言いました。「どうじゃお主、その茶器を余に献上すれば、お主の商売を保護してやろうぞ」と持ちかけたところ、承諾を得ます。

これで念願の3つが揃う!とばかり喜ぶ信長でしたが、その翌日に本能寺の変が起こり、まさかの死去。

なんだか不思議な因果を感じてしまいますが、件の茶器はその後、九州の武将の手に渡った後に豊臣秀吉が入手。最終的には天下統一を果たした、徳川家の手に渡りました。(秀吉と家康は、天下三肩衝のコンプリートが叶う)

武将たちが追い求めた宝物

以上、多くの戦国武将たちが追い求めた、当時に至高とされた宝物を、3つご紹介しました。

現代の視点でみれば「それをなぜ、そこまでして欲しがるの?」と思えるものもありますが、そこからは今とは違う、当時の価値観が伺えます。

日本史に触れるとき、こうした点にフォーカスしてみるのも、また歴史の面白い1つかもしれません。

歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。鬼滅の刃とドラゴンボールZが大好き■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』

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