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テコンドーの貴公子は東京五輪を目指す! 〜南米の家族とアスリートの「今」〜

長谷川歩ジャーナリスト

 デビッド・フィンチャー監督の『ベンジャミン・バトン〜数奇な人生〜』という映画の中でこんなシーンがある。ケイト・ブランシェット演じるバレエダンサーが交通事故に遭うまでの過程を緻密なモンタージュ形式で描いた3分間ほどのシーンだ。あのとき、靴紐が切れなかったら。あのとき、トラックが道を塞がなかったら。あのとき、タクシーの運転手がカフェに立ち寄っていなければ。あのとき、女がコートを忘れていなければー。それらの些細な要素たちが絡まり合い、パリの路上で交通事故は起こる。そして彼女はバレエダンサーの道を断念することになる。人はそれを「運命」という言葉で称する。
 当企画の主人公、鈴木健二さんの人生を見つめたとき、ふと、この映画のことを思い出した。あのとき、オートバイで転倒していなかったら。あのとき、道路に亀裂が入っていなかったら。あのとき、違う病院に運び込まれていたら。あのとき、違うアルバイト先を紹介されていたらー。いわゆる「たられば」を言い始めたらキリがないのだが、鈴木さんのケースに関して言うならば、「もうこれは決まっていたことなのだ」と考えるしかない。そんな説得力を以って鈴木さんは生きてきたような気がするのである。
 私と鈴木さんの出会いも「たまたま」だった。今から10年以上も前のこと。海外で暮らす日本人を紹介するテレビ番組の制作に「たまたま」携わっていた私は、「たまたま」デスクにあった『地球の歩き方』で鈴木さんの店を見つけたのだ。当時は首都のラパスに店を構えており、私たち取材班を快く迎え入れてくれた。特に記憶に残っているのは、あの朴訥とした鈴木さんの口調だ。ギラギラと生きる海外の日本人に慣れていたので、ひどく新鮮に映った。長男のブルーノは聡明なしっかり者。次男のセルヒオはやんちゃ盛り。三男のリカルドは幼すぎて騒がしかった。そんな子どもたちを見つめ、妻のノルマさんはやさしく微笑む。その頃は決して裕福といえない暮らしだったと思う。それでも何か、古典落語に登場する長屋みたいな、温もりのある幸せがそこにはあった。しかしまさか、あのときの子どもたちがオリンピックを目指すアスリートになろうとは。それも東京開催というタイミングで。
 時計の針を交通事故の瞬間に戻してみよう。南米大陸の名もなき一本道。勝手な想像だが、青い空と白い雲が果てしなく広がっている。鈴木青年は時速100キロの猛スピードでオートバイを疾走させ、激しく転倒。30分以上も気を失っていたというのだから、一歩間違えれば死に至る危険もあったはずだ。そこに親切なボリビア人のトラック運転手が通りがかり、日本語の通じる病院に運んでくれた。結局のところ、その一連の流れがきっかけとなって鈴木青年は生涯の伴侶と出会うのだから人生は素晴らしい。
 「災い転じて福となす」とはよく言ったものだ。しかし、その諺が適用されるのはそれだけの素養を持ち合わせている人だけなのだろう。私のような凡人はどうか。トルコで腹痛をもよおして救急搬送されても何も起こらなかったし、パリでタクシーに乗っていて後続車に激しく追突されたときも鞭打ちの症状が残っただけだ。いや、ひとつだけ自ら運命を手繰り寄せた出来事があることを(まさに今)思い出した。それは鈴木さん一家と出会う6、7年前のこと。私は個人旅行でボリビアを訪れていたのだが、旅の最終日、パスポートから帰りの航空券からカメラまで、全てが入ったカバンを何者かに盗まれてしまったのだ。ポケットに60ドルが入っており、その金でラパスの日本大使館に行き、帰国のための手続きをした。途中、呆れるほどに空が青く、そのとき、私はボリビアを嫌いにならなかった。文字通り「手ぶら」になったことで、とてつもなく自由な気分にさえなった。そして、いつかまたこの国に来ようと強く願ったのだ。だからこそ鈴木さん一家に出会えたのだと信じている。
 何が言いたいのかというと、事故を起こしたときの鈴木青年は「何か」を探し求めて南米大陸にやって来たと思うのだ。バブル期の安定した日本での仕事を捨て、茶色い大地で無心でオートバイを繰っていた。目的地はブラジルだったと聞く。つまりボリビアは単なる通過地点に過ぎなかった。そして鈴木青年はスローモーションのように宙に舞う。今回の取材中、私はセルヒオの練習風景を見つめながら、そのスローモーションの映像が何度も脳裏をよぎり、奇妙な感覚に陥った。この才能溢れる青年が「今ここにいる理由」。それを考えていたのだ。単に「運命」という言葉で片付けていいものなのか。私にはわからない。
 セルヒオには東京オリンピックという目指すべき舞台がある。泣いても笑っても、あと数ヶ月。国籍とかアイデンティティとか、そういう小難しい概念はどうでもいいと思ってしまうのだ。彼らは私たちが想像している以上の広い世界で生き、夢を掴もうと努力しているのだから。

受賞歴

WOWOW「ノンフィクションW シャルルの幻想の島〜日本の祝祭とフランス人写真家〜」
日本民間放送連盟賞、The Asian Television Awards グランプリにノミネート(それぞれ優秀賞を受賞)

クレジット

撮影・編集:長谷川 歩
撮影協力:具志堅 勝、佐々木 ユウイチ
取材協力:全日本テコンドー協会、東京書籍株式会社、大東文化大学、高島平中央総合病院

ジャーナリスト

早稲田大学卒業後、テレビ制作会社に入社。報道局スタッフとして米同時多発テロの取材などに従事する。フリーランス転向後、スペインの日本人闘牛士やロシアのエルミタージュ美術館、旧東ドイツで活動していた女性スパイなど、世界の文化・歴史に関するドキュメンタリーを多数制作。東日本大震災以降は外国人ジャーナリストの視点から復興を見つめる作品や被災地の民俗芸能に関する作品などを監督する。最近作は日本の祝祭を撮影するフランス人写真家を追った「シャルルの幻想の島〜日本の祝祭とフランス人写真家〜」。

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